なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
日記 10月6日 柿崎 実中尉
10月6日
22年9月のブログを整理してHPに取り込んだ。

左近允尚敏君から次のメールを貰った。
「9月23日の呉海軍墓地合同慰霊祭に参列し、そのあとの呉水交会懇親会で志摩君と一緒になりました。元気でした。」

有志会員Aさんのブログから
柿崎 実中尉
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大正11年8月3日生まれ、山形県酒田中学出身。 海軍兵学校72期。
昭和18年9月、兵学校卒業と同時に「瑞鶴」乗り組み。1年後の19年9月、人間魚雷「回天」の搭乗員として大津島へ。
19年12月21日 金剛隊として出撃   突入の機会なく帰還
20年 3月 2日 神武隊として出撃   作戦変更により帰還
20年 3月28日 多々良隊として出撃  敵の攻撃により損傷、帰還
20年 5月 2日 天武隊として出撃   沖縄東方海域で突入戦死
 柿崎中尉の人柄や出撃前の様子など、詳細はなにわ会のHPに譲りますが・・・・。22歳の若者が、どうしてこうも過酷な運命を背負ってしまったのか。一人の人間に4度も特攻に行かせるその神経とはいったいどんなものなのでしょうか。19年9月に回天搭乗が決まってから、20年5月に散華するまでの8ヶ月間、かれに心の休まる時間はあったのだろうかと、胸が痛みます。
「敵に勝つには、自分に勝たなければいけない」―こんなことばを残して行った特攻隊員がいたそうですが、柿崎中尉の8ヶ月を見ていると、この言葉が切実に胸に迫ってきます。
 彼は兵学校2学年時、37分隊で第9銀河隊の深井良中尉と同じ分隊でした。
深井中尉のことを調べているときに、同分隊だった方たちの経歴も調べました。その過程で、この柿崎中尉の壮絶な特攻体験を知ったのです。
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(上の写真は深井中尉の甥御さんの深井紳一さんに提供していただいたものです。)
 特攻待機している間、かれに、少しでも心休まる時間はあったのか・・・・。そのことが引っかかっていました。
 たまたま本屋で立ち読みした『回天の群像』という本に、柿崎中尉の名前が出ていました。
 鹿児島知覧の陸軍航空特攻の隊員たちのお世話をした鳥浜トメさんという有名な方がいます。「特攻の母」として映画にもなっているのでご存じの方も多いと思います。
 海軍の回天基地の近くにも、トメさんのような女性がいました。士官用の高級割烹料亭「松政」で働いていた倉重アサコさん。おシゲさんと呼ばれていました。当時、30代後半。隊員たちからお母さんのように慕われていました。
 本によると、最後の出撃の前、柿崎中尉は部下の横田寛一飛曹をつれて「松政」にやってきました。そこで柿崎中尉は横田兵曹をこう紹介しました。
「母ちゃん、この男はね、今度、おれと一緒に行くことになったやんちゃ坊主だ。小さい時、おふくろが死んでね。だから、母ちゃん、今日一日でいいから、こいつのおふくろになってやってくれんかな」
おシゲさんは、「はいはい」と返事をし、そのあと、3人で酒を飲んだそうです。しばらく飲むうちに柿崎中尉が酔って、おシゲさんの膝枕でうたた寝を始めてしまったとか。
「みんな、かわいいのよ。柿崎さんはいつもこうなの。いい人でしょう」
おシゲさんはそう言いながら、柿崎中尉の軍服と靴下を脱がせ、雑巾で足を丁寧に拭き始めた・・・・その様子に胸を突かれた―と生き残った横田兵曹が回想しているそうです。
「こいつのおふくろになってやってくれんかな」
と言いながら、自分が甘えてしまっている柿崎中尉。
なんだか、もう、心中、想像しただけで涙が出てきてしまいます。
 柿崎中尉がおシゲさんに残した遺書―。
「おしげさん、母のような気がしてなりません。抱いて下さったときは感無量でした。誰にも負けず、しっかりやります。子供共も一騎当千のつわものぞろいです。私は幸福者です」
参考:なにわ会HP、宮本雅史『回天の群像』角川学芸出版
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by naniwa-navy | 2010-10-06 05:19 | 日記
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