戦没者
67年前 昭和19年
藤井 弘元(那智 巡洋艦)
マニラ湾で敵大編隊の攻撃を受け被弾戦死
風見 芳郎(254空 戦闘機)
比島クラーク アンへレス南飛行場付近で敵機を迎撃交戦戦死(零戦)
安保 寿夫(戦315 戦闘機)比島タクロバン攻撃中戦死(零戦)
戦後物故者なし
昨日泉君から広瀬晴雄さんの手紙の写を送ってもらった。その中のあった随筆である。
随筆
『百舌が枯れ木で鳴いている』
先日のNHK深夜放送で、戦中、或る小学校の国語時間の冒頭、教壇に直立不動の姿勢をとり涙ながらにこの歌を歌った先生の思い出を語る人があった。
作詞家はあの容貌魁偉のサトウハチローである。彼は有名な小説家佐藤紅緑の長男だ。紅緑は大正生まれのロートルには懐かしい少年倶楽部に連載の「あヽ玉杯に花うけて」の著者だった。美男子の紅緑にどうしてこんなデブの容貌が生まれたのか、何時も不思議だったのであるが話を戻そう。
『枯れ木に百舌が鳴いている。・・・
みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ・・・
兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ』
作曲は当時中学校教師の徳冨繁だ。当時は良く歌われたものと言うが私は聞いたことがないのでパソコンで聞いてみた。静かに胸を打つ良い唄だ。現在これは「厭戦歌」と称されているらしい。しかし、当時の軍部が良く我慢して許していたのは、おそらくハチローの髭づらだが何処か無邪気さに溢れる人徳の賜物だと思うのである。 平成23年10月24日 広瀬 晴雄
頂いたのは上の通りである。
広瀬 晴雄様は昭和20年4月28日ウルシー上空で戦死した故広瀬遼太郎君の弟である。
1925年、「少年倶楽部」の僕等の詩集欄に掲載された詩に、茨城の中学教師だった作曲者が曲を付け、生徒たちに教えた。当初は「百舌よ泣くな」という題であった。戦後うたごえ運動の中で取り上げられ、全国に広まった曲。♪~みんな去年と同じだよ けれども…。
元は「百舌よ泣くな」の題で詩人サトウハチロー(1903-73)が1935(昭和10)年に発表し、茨城県の中学教師・徳富繁が作曲した歌。戦地で辛酸を嘗める兄を思う弟の心を歌う内容だが、出来た頃は中国侵略戦争が本格化。「愛国行進曲」がミリオンセラーなど好戦的な軍歌が一世を風塵し、この歌が歌われたのはもっぱら茨城県内にとどまった。
戦後、急速に全国に広まる中で歌詞が変わってしまい、茨城県民謡とみなされた時期もあった。
ハチローは、民謡とされなければ広く親しまれている歌詞でいいよと語ったという。普及した詞との相違は以下の部分。
♪~百舌が枯木に泣いて… →枯れ木に百舌が鳴いて
鉄砲が涙に… →鉄砲が涙で
百舌よ寒くも泣くでねえ… →もずよ寒いと 鳴くがよい
寒いだぞ →寒いだろ