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- 訃報 伊藤正敬氏―深井紳一(深井良の甥)[ 2012-04-18 11:54 ]
- 日記 12月29日[ 2011-12-29 06:52 ]
- 九九式艦爆11型[ 2011-06-17 22:44 ]
- 海軍兵学校受験志願票受領のハガキ[ 2011-05-21 22:38 ]
- 戦死の通知[ 2011-05-11 23:20 ]
- こんな本が出ています[ 2011-04-28 19:28 ]
- 消費税[ 2011-04-28 19:17 ]
- 鎮魂,比島の山々(齋藤画)[ 2011-04-25 20:25 ]
- ニュウジーランド部隊(NZ) 堀 剣二郎[ 2011-02-27 11:10 ]
- 空母雲竜の最後を偲ぶ、 機・齋藤[ 2010-12-19 18:05 ]
長い間ブログ更新が無いので、今日4月18日、伊藤さんのご自宅にお電話しました所、奥様から残念なお知らせをお聞きしました。伊藤様は入院されたまま、肺炎が悪化して2月23日にお亡くなりになったとの事です。なにわ会のためにホームページやブログを管理され、イベントなどにも積極的に活動されていた伊藤様のご逝去はとてもショックです。個人的にも海兵72期の伯父深井良中尉(少佐)の事を調べるのに大変お力をお貸し頂きました。
どの様な質問にも丁寧にお答え頂き、他の方々にも親切にご対応されていたとお聞きします。全てに正確を期し、誠実に対応されるお姿は、まさに海軍五省を実践されていたかのように思い出されます。天国で伯父達と酒を酌み交わしてください。ありがとうございました。お疲れ様でした。ご冥福をお祈りいたします。
伊藤様の立ち上げた、この貴重なブログが読み継がれるよう72期やコレスの方々、関係者やお知り合いで投稿していけたら、伊藤様もお喜びになると思います。写真左は2008年6月15日靖国で撮影した伊藤氏、右は精島弘文氏です。

伊藤様の立ち上げた、この貴重なブログが読み継がれるよう72期やコレスの方々、関係者やお知り合いで投稿していけたら、伊藤様もお喜びになると思います。写真左は2008年6月15日靖国で撮影した伊藤氏、右は精島弘文氏です。
12月29日
戦没者 67年前 昭和19年
林 宏一(765空 艦攻燥)
比島方面 サンホセの敵輸送船団攻撃に向い、消息を絶つ
戦後物故者無し
左近允尚敏君から呉水交(24年1月号)に投稿された志満 巌君の「海軍の思い出 禍福は糾える縄の如し」のコピーを送って貰った。志満君は中学時代から剣道に精出していた。7Ⅰ期で入校、4号の時、剣道競技で3を抜いたがメダル獲得にはほど遠い成績であった。3号の時は頑張ってメダルを獲得しようと狙っていた。ところが、競技の日が近づいた頃、風邪をひき、突然39度近い熱が出て病室に入れられた。そして、競技の日の朝、「軍医官に熱は下がりました。大丈夫です。」と嘘を言って病室から出してもらい、剣道競技に参加、7人を抜いたが、その時教官の田中中尉が審判の教員(下士官)に「志満を休ませてやれ」と声をかけた。
審判の教員は「志満生徒、面をとって休む」と言った。この休むについて次の説明がついていた。
『生徒は准士官の下で下士官の上という地位が与えられています。教員は下士官なので、本来なら生徒に対して敬礼する立場ですが、同時に教官の補佐として生徒に教える立場でもあるので、校内に限り、起床から朝食迄の間は生徒の方から敬礼するよう定められていました。しかし、教員は下級者であることには間違いないので、命令口調を用いないのが普通でした。この場合でも、一般の試合であれば「面を取って暫く休め」という指示になるはずですが、「休め」を「休む」と言ったのはそのような事情からです。』
彼は審判の指示に従って少し休んでからさらに勝ち進んで11人を抜き、その次に敗れたが、念願のメダルを獲得した。
このほか、銃剣術競技のこと、父親への手紙のこと、1年間の自宅療養のこと、卒業式のこと、海兵団から海軍省人事局に直訴して八雲に乗ったこと等が書かれていて興味深く読める。
戦没者 67年前 昭和19年
林 宏一(765空 艦攻燥)
比島方面 サンホセの敵輸送船団攻撃に向い、消息を絶つ
戦後物故者無し
左近允尚敏君から呉水交(24年1月号)に投稿された志満 巌君の「海軍の思い出 禍福は糾える縄の如し」のコピーを送って貰った。志満君は中学時代から剣道に精出していた。7Ⅰ期で入校、4号の時、剣道競技で3を抜いたがメダル獲得にはほど遠い成績であった。3号の時は頑張ってメダルを獲得しようと狙っていた。ところが、競技の日が近づいた頃、風邪をひき、突然39度近い熱が出て病室に入れられた。そして、競技の日の朝、「軍医官に熱は下がりました。大丈夫です。」と嘘を言って病室から出してもらい、剣道競技に参加、7人を抜いたが、その時教官の田中中尉が審判の教員(下士官)に「志満を休ませてやれ」と声をかけた。
審判の教員は「志満生徒、面をとって休む」と言った。この休むについて次の説明がついていた。
『生徒は准士官の下で下士官の上という地位が与えられています。教員は下士官なので、本来なら生徒に対して敬礼する立場ですが、同時に教官の補佐として生徒に教える立場でもあるので、校内に限り、起床から朝食迄の間は生徒の方から敬礼するよう定められていました。しかし、教員は下級者であることには間違いないので、命令口調を用いないのが普通でした。この場合でも、一般の試合であれば「面を取って暫く休め」という指示になるはずですが、「休め」を「休む」と言ったのはそのような事情からです。』
彼は審判の指示に従って少し休んでからさらに勝ち進んで11人を抜き、その次に敗れたが、念願のメダルを獲得した。
このほか、銃剣術競技のこと、父親への手紙のこと、1年間の自宅療養のこと、卒業式のこと、海兵団から海軍省人事局に直訴して八雲に乗ったこと等が書かれていて興味深く読める。
深井良の甥紳一です。書店に「日本陸海軍機大百科 第46号 九九式艦爆11型」アシェットコレクションズ 1990円が並んでいます。1/100の模型と冊子のセットです。伯父や山田さん、東條さん他艦爆練習生が百里で練習した新型の22型ではありませんが、真珠湾攻撃から高い命中率の急降下爆撃で活躍した名機です。下の写真は22型で、後席の電信員のキャノピーが11型より長くスマートに改良されています。
画像/東條重道さん蔵

深井良の甥、深井紳一です。伯父宛ての海軍兵学校受験志願票受領のハガキの裏面の画像です。記憶が蘇られる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今日の記事に載せて頂いた深井良の甥、深井紳一です。伯父の戦死を伝える手紙をご紹介します。この他、「昭和十六年度海軍生徒志願者心得」「志願票受領」のハガキ、「最終試験継続者心得」「軍港衛門通行時ノ心得」等もありますので、順次ご紹介させて頂きます。

日本陸海軍機大百科大41号 銀河11型1990円が店頭に出ていました。深井良の第九銀河隊は、メンテナンス性の良い銀河16型(極光と呼称していた?)
であった可能性が高いですが、エンジンカウルの形状以外は同じものです。この形が新幹線0系に発展していったそうです。

機関科の整備組は35名であるが12名が戦死した。その内9名は比島での戦死である。
66年前の4月、敵の上陸を迎え整備の諸氏は本業を捨てて陸戦隊の指揮官となり、無念悲惨な最期を遂げる。
金枝・三沢の両君は寸前に比島を脱出終戦を迎えた。その9名は
堀哲男・青木光雄・増井吉郎・松山行輝・国生真三郎・成瀬秋夫・山崎登・関谷年男・菊池滋である。鎮魂。私は前年の10月比島沖海戦で沈没生還、その後駆逐艦宵月犠装員、乗組として当時瀬戸内海にあり、比島の苦闘はその詳細を知る由もなかった。特に菊池は4号同分隊で戦記を読むと終戦後9月11日の従容たる最後、今尚涙す。
66年前の4月、敵の上陸を迎え整備の諸氏は本業を捨てて陸戦隊の指揮官となり、無念悲惨な最期を遂げる。
金枝・三沢の両君は寸前に比島を脱出終戦を迎えた。その9名は
堀哲男・青木光雄・増井吉郎・松山行輝・国生真三郎・成瀬秋夫・山崎登・関谷年男・菊池滋である。鎮魂。私は前年の10月比島沖海戦で沈没生還、その後駆逐艦宵月犠装員、乗組として当時瀬戸内海にあり、比島の苦闘はその詳細を知る由もなかった。特に菊池は4号同分隊で戦記を読むと終戦後9月11日の従容たる最後、今尚涙す。

終戦直後から呉市には占領軍として先ず米軍、次に英連邦軍の英,インド、オーストラリア、ニュウージランド、カナダ軍が駐留した。それに伴い多くの日本人労務者も雇用された。労務者は各種の職種に分かれていたが自動車運転手とししてこれらの全部隊で働いた人がいた。彼に、どこの国が一番待遇が良かったかと聞いたところ即座に、ニュウージランドと答えが返ってきた。労務者をお客さん扱いにして、兵隊より先に食事をしたとのことである。終戦直後のある時期まで運転手は食事つきであった。 呉市史によればニュウージランド軍は昭和21年3月23日までに進駐を完了した。同年12月31日における兵力は4444人であった。
雲竜ただ一人の士官生存者73期森野氏の戦記を同じ機関長付として戦える大垣浩一郎君の奮戦、我が能代の最後とだぶり涙して再読する。そして生徒時代の大垣の童顔を偲び改めて冥福を祈る。
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