なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
カテゴリ:情報( 8 )
戦没者統計
 昨日泉五郎君から戦没者総数を卒業生数で割り更に戦争に従事した月数で割った戦没率B(%)は割った期間が間違っているので、戦没率も間違っていると電話を貰った。チェックしてみたら72期以前のクラスが全部間違っていた。そこで訂正して計算し直してHPを訂正した。その結果の漸くである。

海軍兵学校
期   卒業  戦死  卒業後の  戦没率A(%) 戦没率B(%)
            戦時期間(月) 
兵65  187  106     47      56.68    1.21
兵66  220  119     47      54.09    1.15
兵67  248  155     47      62.50    1.33
兵68  288  191     47      66.32    1.41
兵69  343  222     47      64.72    1.38
兵70  433  287     47      66.28    1.41
兵71  581  329     35      56.63    1.62
兵72  625  335     23      53.60    2.33
兵73  898  283     16.5      31.51    1.91
兵74 1,024  16      4.5      1.56    0.35

 戦没率Aでは68期、70期、69期、67期、65期、71期、72期、73期の順だが、戦没率Bでは72期、73期、71期、70期・68期、69期、67期、65期、66期の順である。即ち卒業後終戦まで平均毎月2.33%(14.6人)が戦死している。

海軍機関学校

期   卒業  戦死   卒業後の     戦没率A(%)  戦没率B(%)
             戦時期間(月)
機46   69   30     47       43.48      0.93
機47  75   30     47       40.00      0.85
機48  74   34     47       45.95      0.98
機49  78   32     47       41.03      0.87
機50  76   57     47       75.00      1.60
機51  93   57     47       61.29      1.30
機52  115   57     35       49.57      1.42
機53  111   57     23       51.35      2.23
機54  173   51     16.5       29.48      1.79
機55  318    1     4.5        0.31      0.07
 戦没率Aでは50期、51期、53期、52期、48期、46期、49期、54期の順だが、戦没率Bでは53期、54期、50期、52期、51期、48期、46期、49期、47期の順である。即ち53期卒業後終戦まで平均毎月2.23%(2.5人)が戦死している。

海軍経理学校
期   卒業  戦死  卒業後の    戦没率A(%)  戦没率B(%)
            戦時期間(月)
経26  20    6    47       30.00      0.64
経27  25    2    47        8.00      0.17
経28  25    7    47       28.00      0.60
経29  26    8    47       30.77      0.65
経30  31    14    47       45.16      0.96
経31  35    14    47       40.00      0.85
経32  42    17    35       40.48      1.16
経33  99    2     4.5       2.02      0.45

 戦没率Aでは30期、34期、32期、31期、33期、29期、26期、27期の順だが、戦没率Bでは34期、33期、32期、30期、31期、29期、26期、27期の順である。即ち34期が一番多く卒業後終戦まで平均毎月2.48%(1.63人)が戦死しており、次いで33期が1.62%(0.86人)が戦死している。
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by naniwa-navy | 2011-11-19 18:05 | 情報
東京クラス会
東京なにわ会について、10月15日締め切りの結果
出席;
 相澤善三郎、旭 輝雄、足立英夫、安藤昌彦、池田武邦、
 泉   五郎、伊藤正敬、上野三郎、大槻敏直、小林 勝、
 左近允尚敏、新庄 浩、高松 道雄、都竹卓郎、平川 進、
 松下 太郎、山下 誠、山田 穣、若松禄郎、金枝健三、
 齋藤 義衛、野崎貞雄、村山 隆、室井 正、窪添龍輝、
 高田 俊彦、深尾秀文、藤瀬韶国 鴋沢 孝(野崎貞雄の友人)
 計29名、
欠席:
 岡本 俊章、奥山 寿一、佐藤 静、林 藤太、原田種睦、
 樋口  直、 宝納 徳一、堀剣二郎、山田良彦、岩松重裕 
 計10名
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by naniwa-navy | 2011-10-15 09:43 | 情報
地震
昨日の地震大変でした。丁度その時、床屋に行って最後の仕上げの段階で物凄いゆれ、
揺れがおさまったところで外に出て、その儘家に帰りました。
家から500Mの所の床屋でしたので、無事帰れました。
その後、電気、ガス、電話がダメ、水道だけは出ました。
テレビは見れない、パソコンは出来ない、本当に不便です。
幸い物的被害はありませんでした。
夜中までラジオだけ聞いていました。
今朝3時頃目が覚めたら電気がきていてパソコンを開きました。
最大の地震で、被害が物凄いですね。
皆さん異常はいかがですか。
12日午前4時
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by naniwa-navy | 2011-03-12 04:01 | 情報
田島明朗」さんからのメール
 『泉五郎氏の名文「八雲残照」を読まれた方は「八雲行脚」の内容が良く理解出来たと存じます。
しかし「なにわ会」の会員を除いて、なぜ「八雲」1隻だけがこの時期「内地巡航訓練」をしていたのか疑問をお持ちの方もお有りかと思い、ブログを読まれる方に敢えて一文を付け加えます。
昭和18年9月15日3校を卒業した兵科・機関科・主計科候補生は、「海軍練習飛行学生」を命じられ、霞ヶ浦に向かった兵科・機関科の326名、海兵団付の7名を除いて、1期の候補生が乗り組む菊の御紋章が付いた「山城」「伊勢」「龍田」「八雲」に乗り組み、「昭和18年度実務練習艦隊」として訓練に入った。
 ところが当時の戦況から、中部太平洋戦備強化のため陸軍部隊を急遽南方に輸送する必要が生じ、陸軍第52師団の一部約2000名と装備を「山城」「伊勢」「龍田」でトラック・ポナペに輸送することになった。
32駆逐隊の「早波」「藤波」「涼波」を付したこの「丁3号輸送作戦」は10月15日佐賀関を出発し、「龍田」はポナペまで足を延ばし輸送作戦は成功した。
この詳細は「なにわ会ニュース第38号」に掲載されて居る。
さて、ここで気の毒だったのが「八雲」である。留守番役になった理由は「始終8ノット」のアシ以外に理由は無い。
「八雲」は単艦内地で訓練の羽目になったが、「山城」以下がトラックから帰って来るまでの間、大三島・高井神島・高松・郡中沖・亀川沖等に立ち寄り或いは上陸して神社仏閣参拝、名勝見物なども有る外野から見ればノンビリした内海巡航訓練を続けた感がある。この訓練航海中の「艦内新聞」が「行脚」に発展し、こんにち我々がブログで拝読出来る時代になったわけである。』
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by naniwa-navy | 2010-09-27 13:09 | 情報
高橋義郎中尉の出撃の様子
深井良の甥深井紳一です。今「戦艦ミズーリに突入した零戦」光人社 可知晃著 という本を読んでいます。その中で72期から艦爆へ行かれた、高橋義郎さんの出撃直前の一言が書かれていました。時任少尉と出撃の飛行場に駆け付けたその父とのやりとりを中心とした短い描写ですが、数時間後に確実に死を控えたと思えない、同僚偵察員の親を思いやるようなご立派な態度に感動を覚えましたので引用します。
両親との決別
国分基地の慰霊祭には、第一草薙隊・時任正明少尉(予備学生13期、中央大、鹿児島出身。4月6日、南西諸島海域にて戦死)の姉上の前田良子さんも、宮崎県から出席されていた。時任少尉は、99艦爆で、台地の上の第二国分基地から発進して行った。少尉の実家は、第二国分基地から北へ直線距離にして50キロくらいの、伊佐郡菱刈町本城であった。十三塚原特攻碑保存委員会編『鎮魂 白雲にのりて君還りませ』という、国分第二基地から発進していった特攻隊員の手記がある。ここに掲載されている時任少尉と両親との飛行場での別れの場面が非常に印象的で、以前から強く記憶に残っていた。早速、話が聞きたくて、鹿児島県の前田良子さんに電話をした。半世紀の時間を感じさせない、姉の弟を想う暖かな優しい気持ちが感じられた。以下の様な状況だったという。
「国分の息子さんから電話です」役場の小使いさんの呼び出しで、両親、祖母、姉は役場に急行した。出撃前の夜、国分基地から時任少尉の最後の電話だった。父「正明か、往っておいで。家の事は何も心配いらない。立派に戦っておいで。成功を祈る」
母「正ちゃん、いよいよ往きますか。元気で往ってください」姉「正ちゃん、元気でお往きなさい。心残りなく戦って下さい」思い思いの声が受話器にすがる。父「おばあさん、これが正明の最後の電話ですよ。良く聞いておきなさい。涙声をださないように」促されて、祖母は生まれて初めての受話器をとった。祖母「正ちゃん、明日発ちますか。行っておいで。そして元気に帰っておいで」後は言葉にならなかった。電話は切れた。零時半だった。家に帰り大急ぎでご飯を炊き、おにぎりをつくり、身支度をして午前二時、両親は家を出た。夜通し、三里(12キロ)の道を歩いて、国分の宿舎である農学校に九時に着いた。時任少尉は、すでに五時半に宿舎を発っていた。両親は休む間もなく、さらに二里(8キロ)の山道を登って、ようやく飛行場の端に着いた。十一時十五分だった。次から次へと離陸する飛行機。何人かの人に尋ねて、広い飛行場を走り回り、ようやく発進直前の時任少尉機のそばに駆けつける事ができた。父「正明っ!」正明「はい、お父さん。来られましたか」父母「良かったね、間にあって。元気で往きなさい」正明「有難う。お父さん、お母さん、体をお大事に。おばあさん、お姉さん、お兄さんによろしく。近所の方にもよろしく。何も思い残すことはありません。喜んで往きます」すぐ伝声管で前の操縦士に話をすると、すぐ前の窓があいて、「高橋です。いってまいります」と笑顔でいった。第一草薙隊指揮官の高橋義郎中尉(海兵七十二期)であった。(時任少尉は、指揮官機の偵察員であった)

この日は同じ72期の艦爆搭乗員牛尾久二中尉、前橋誠一中尉も第一正統隊として沖縄の海に没しています。
写真は上から高橋義郎中尉、牛尾久二中尉、前橋誠一中尉
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by naniwa-navy | 2010-01-30 17:51 | 情報
テレビ放送
有志会員のHさんから次の情報を戴きました。
NHK総合テレビで、次の再放送が有ります
1  8月4日(火) 1:29~2:12、証言記録・兵士たちの戦争『フィリピン・シブヤン海 戦艦武蔵の最期』
2   8月5日(水) 0:45~1:29、証言記録・兵士たちの戦争『人間魚雷 悲劇の作戦~回天特別攻撃隊』
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by naniwa-navy | 2009-07-30 20:34 | 情報
故河合不死男君の最後
故河合不死男君が戦死したとき乗艦していた18号輸送艦の最後が琉球新報に次のように報ぜられた。
「人間魚雷・回天の隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が、1945年に米潜水艦に撃沈され全滅していた史実が明らかになった。元回天隊員らが、米海軍の資料「第二次大戦潜水艦作戦史」などから突き止めた。同艦はこれまで、那覇到着前に「行方不明」、その後「喪失認定」というのが国の資料に基づく史実だった。米海軍の資料によると、輸送艦は1945年3月13日に、回天隊員らを乗せ山口県・光基地を出港。那覇到着前の3月18日、米潜水艦・スプリンガーから1時間にわたり魚雷8発の攻撃を受け、粟国島沖合北北西5キロで輸送艦乗員225人と回天隊員127人が全滅したとされている。
遺族の中には国の戸籍原本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を務めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍原本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加して戦死したりと、でたらめだった」と話す。米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら乗員225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14人の氏名などが判明している以外は不明のままだ。
 猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍原本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。 「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。
 
次の写真は回天白龍隊隊長・故河合不死男君の遺品(アルバム)の中に有ったもので、ウィキペディアに掲載されている。
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前列左より久住中尉(72期)、加賀谷大尉(71期)、三谷大尉(71期)、橋口中尉(72期)。後列左より河合中尉(72期)、帖佐大尉(71期)、福島中尉(72期)、山地大尉(70期)、小灘中尉(72期)
このうち橋口中尉は自決、三谷大尉・帖佐大尉・小灘中尉の3名は終戦時生存(戦後いずれも病死)、其の他は回天で戦死されている。
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by naniwa-navy | 2009-07-02 17:51 | 情報
71期会
71期のHPの記事の転記です。(要旨)
「五月三十日に行なわれた七一会最後の慰霊祭は連日の小雨模様でしたが皆様がお集まりになる頃は雨も止み、暑からず寒からずの天候となりました。 ご遺族、六十八期先輩、期友合わせて235名のご参列を得て、無事盛大厳粛に執行することができました。
  来年からは毎年七十一期生が海軍少尉に任官した六月一日午後二時昇殿、永代神楽祭が挙行されるので三十分前迄に靖国神社参集殿に参集、案内状は出さないとのことである。」

以上が、要旨ですが、なにわ会と71期会の永代神楽祭の日が同じになったので、参拝者の増加が考えられるので、来年以降どうすか、近く関係者で検討することになっています。
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by naniwa-navy | 2009-06-15 11:53 | 情報

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