なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
カテゴリ:思い出( 12 )
海軍兵学校2学年時の歌
泉 五郎君から次の海軍兵学校2学年第54分隊時代の歌詞を頂いた。

作詞 巻 石蔵(72期)
作曲 田中公夫(71期)

流離の定め人のせ世に  有情四十の丈夫が
奇しくも結ぶ一年の   名残を長く留めんと
森の木陰に夢の花    乱れて咲きぬ五十四

君知れりや丈夫の    期せし覇業は難くとも
遂げずば止まじ胸に湧く 若き血潮の雄叫びに
見よ古鷹の峯高く    北斗の空も揺るぐなり

ああよしさらば暁の   海に鍛えん此の腕
血に固めなん此の契り  伝統此処に創む可く
必勝の気に燃え立ちて  今ぞ勝利の道を行く


作詞 宮地(冨士)榮一(72期)
作曲 田中公夫(71期)

貴様は九州薩摩芋    俺は東北雪達磨
だけど今では江田島の  北も南も戦友だ

貴様はバテレンクスチャン    俺は真言ナンマイダ
それも今では糞喰え   俺にゃ貴様が仏様

貴様は髭面親爺殿    俺は可愛いお稚児さん
それも同じ三号の    泣くも笑うも風任せ

何の縁か同じ世に    俺だ貴様と呼び合って
飯を分け合う縁じゃもの 閻魔の前でも俺貴様
[PR]
by naniwa-navy | 2011-06-12 05:18 | 思い出
母の日:「お母さーん」と三度呼ぶこと    堀剣二郎 
海上自衛隊の幹部候補生学校で飛行幹部候補生課程(パイロットが主体の課程)の卒業式に臨席した高橋 定海将(旧海軍の艦爆パイロット、艦爆は艦上爆撃機の略、急降下爆撃を専門とする。)は、祝辞の中で次の要旨のことを述べられた。

飛行勤務中に大きな危難に出会った時には、「お母さーん」と腹から三度呼ぶと気持ちが落ち着いて適切な行動がとれる。 母の日にはこの言葉を思い出します。 
 
母の日は5月の第2日曜 今年は5月8日です。
[PR]
by naniwa-navy | 2011-05-06 18:20 | 思い出
堀剣二郎    多田圭太君の思い出
 11月19日のブログにあった多田圭太君のことから海軍兵学校3学年の航空実習を思い出し、当時の写真を捜していたら次のスナップ写真が見つかった。
c0130833_213297.jpg


 この写真、向かって右から藤範純二(19.12.10戦死 伊365)、
多田圭太(19.11.19戦死 神風特攻)、星野政徳(22.9.17戦後死)、
冨井宗忠(19.11. 5戦死 那智)である。
 19日の多田の命日に思い出を書いて冥福を祈るつもりが遅くなった。
 生徒時代、航空実習は皆が本当に楽しみにしていたもので、実習の初日、飛行服など一式が貸与された夜は、帽子、服、靴まで着けてベッドに寝ていたのがいた。
 実習は飛行時間六千時間と自己紹介した上等飛行兵曹の教員も教官として毎日数十分同乗して飛行教育が約1週間行われた。
 ところが、多田圭太が毎日練習機から降りてくると、今日はこう言って褒められたと毎日褒められた事を話し、最後の水平飛行実施では、乙種飛行練習生卒業以上と言われたと言うではないか。適性というものはこういうものかと感じた。乙種飛行練習生は水兵から入るものだそうだが、そして教育期間は戦時中短縮されたが、それでも最低で3ヶ月はあったと思われる。多田はその卒業以上というは何と素晴らしい適性の持ち主であったことか。
 彼の命日といわれて思い出すのはこのことだが、ある時はこんなことも云っていた。「俺は将来白い夏制服では不自由しない、親爺がフランス駐在武官時代にこしらえた服が沢山洋服ダンスにあると。」
 夢多き青春を、また、人生を、国家の為に捧げた彼の冥福を心からお祈りするものである。
[PR]
by naniwa-navy | 2010-11-24 21:25 | 思い出
思い出  堀 剣二郎
昭和20年8月6日、駆逐艦宵月は、呉軍港に近い島の入江にいた。カモフラージのため長さ135メートルの船体全長に藁縄で編んだ網を被っていた。雲一つない快晴であったが朝早くラジオは空襲警報を伝えた。艦橋の12センチ高角望遠鏡で見ると一万メートル位の上空に大型機が一機認められたが、しばらくして、警報は解除され
た。広島市の記録では午前7時三一分警戒警報解除となっている。敵機がいるのに解除するのはこの機は偵察機で爆撃はしないと見たのだろうと思った。その後なにかの用で甲板に降りて煙突の近くにいるとピカッと光を感じたので探照灯を点灯したかと思いその方を見ても探照灯はカバーを被ったまま。艦橋に駆け上がると、ドーンと腹にひびく音がして白い雲が湧き上がるのを見た。その時これは火薬庫が爆発したのではないかと思った。しかし午後になると米側の短波放送は、新型爆弾が広島に投下され、横川町の方まで家が倒れていると報じた。当時.艦は広島の南約25km、音速を346.5m(温度二五度の場合)とすると、爆発音ガ伝わる所要時間は約72
s、私が閃光みた時(爆発の時)から音を聞くまでの時間に大体一致する。広島、呉方面の人は、原子爆弾をピカドンと呼ぶがまさに名は体を表している。
[PR]
by naniwa-navy | 2010-08-06 11:43 | 思い出
機 斎藤 義衛
4月1日に書いた記事、写真が携帯で見えないそうですので写真をちいさくしてみました。
4月の思いで
19年4月
 ・1日 米機動部隊 トラック、パラオ空襲
 ・2日 連合軍ホーランジア上陸
機関科の戦死者  無し                      
20年4月
 ・1日 米軍沖縄本島に上陸 
 ・5日 ソ連日ソ中立条約破棄
     小磯内閣総辞職
 ・7日 鈴木内閣成立、大和玉砕
機関科の戦死者 8名
比島に於いて、整備、兵器のクラスメートは転進作戦で本務ならざる陸戦隊として苦難壮絶なる死闘。
  高脇圭三(大和)、小山 力(偵察)、本田武夫(第3御盾隊)
  門脇国樹、青木光雄、岸 昭、増井吉郎、松山行輝(以上整備)
c0130833_13582648.jpg

上の作品は転進苦闘の地 ファンギ山を望む(齋藤画)
この作品をご遺族に進呈した。
整備諸氏の奮戦を金枝健三君の手記(比島クラーク地区に眠る級友を偲ぶ)戦記を再読して戴きたい。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-hitoukura-ku-kaneeda1.html
[PR]
by naniwa-navy | 2010-04-02 13:57 | 思い出
国旗     小島 末喜君の事    
  
  国旗のことで思い出した。 昭和の頃,旗日(祝日)に小島(旧姓 安藤)君が朝日新聞の2ぺいじ目に{国記を掲げましょう}と標語のように書いて会社名を記した約5センチ角の広告を紙面の下の方のある広告欄でなくその上の記事欄に掲載していた事を思い出します。彼は6.1.14に亡くなつている。(堀)         
[PR]
by naniwa-navy | 2010-02-12 09:23 | 思い出
水雷艇の夜襲       堀 剣二郎
  
  私がよく思い出す{水雷艇の夜襲}は2月8日だったと思い検索したところ 2月4日でした。
  
  歌詞       
    
  月は隠れて海暗き
  2月4日の夜の空
  闇を知るべに探り入る 
  我軍9隻の水雷艇
               ご参考まで  
[PR]
by naniwa-navy | 2010-02-08 12:37 | 思い出
機関科の戦死者         斎藤義衛
 機関科の戦死1号は19.1.12の石井、機関科111名の内31名が水上、そして戦死した者18名、その内艦が沈没して戦死したもの15名、何れも機関室ならん、他の3名は注排水などの配置ならん。
生存者13名の内5名は乗艦沈没、その内3名は戦後死去!
現在生き残るは村山・齋藤のみ。
機関科の沈没を知る貴重品!
水上艦艇組が少なきは、盲目的戦死を厭い攻撃的戦死をとパイロット・潜水艦・整備を志向したせいならん!
私は19・1・1のキャビエンの戦闘で確実に戦死第1号となっていた?
(能代はトラックからカビエンへの輸送作戦の際1944年1月1日カビエンで揚陸中に空襲を受け50kg爆弾を2発被弾して中破。)
[PR]
by naniwa-navy | 2010-02-02 06:57 | 思い出
20年2月の機関科戦没者
c0130833_10371313.jpg
                 
2月の機関科の戦死者は19年は無く、20年に3名。その一人回天散華の川崎の遺影は、遊就館の神神の間の第一室入り口最初にあり、私は年に数回訪れるが最初に駆けつけるのは川崎の遺影!彼は今尚生きている!
                 斎藤 義衛
[PR]
by naniwa-navy | 2010-02-01 10:37 | 思い出
楓の思いで
c0130833_20325394.jpg

今から65年前の昭和20年1月31日私は駆逐艦楓の航海長だった。
在フィリピンの航空部隊は壊滅したが、搭乗員は相当数が乗機を失って、フィリピンから脱出することもできなくなっていた。そこで20年1月31日 に、第43駆逐隊の「梅」「楓」「汐風」の3隻に、ルソン最北端のアパリにむけ、航空要員を救出するため 出撃することが命じられた。「パトリナオ輸送作戦」である。
しかし、すでに制空権は完全に米軍のものとなっており、水上艦隊が動けるような状態ではなかった。
1月31日、「梅」 「楓」 「汐風」の3隻は、台湾の高雄からルソン島最北端のアパリへ向け出港する。
アパリ防衛のための高雄陸戦隊を乗せ、空襲を避けるためアパリ近郊のパトリナオ村を目指して午前8時高雄を出港、24ktで南下した。
10時、バシー海峡でアメリカ軍哨戒機に発見される。
15時頃、台湾最南端ガランピ岬の南方約35kmで米陸軍第14航空軍所属のP38戦闘機に護衛された第38爆撃航空団所属のB25爆撃機12機と第35戦闘航空団所属のP47戦闘機4機の空襲を受ける。
先頭にいた「梅」は、左舷側から集中攻撃を受け、主砲指揮所と前部砲塔と艦橋間の甲板などに3発被弾、機械室を破壊されて航行不能になる。
15時18分、「楓」が艦首に被弾、「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。
18時過ぎ、「梅」は「汐風」の砲撃により自沈処分となる。吉田司令など生存者は汐風に救助され、作戦の中止により高雄に引き返す。「梅」は約80名、「楓」は50名以上が戦死。
この時、楓主計長は高杉敏夫君だった。
私は卒業後終戦まで、終始艦艇(山城、隼鷹、羽黒、楓)勤務だったが、被害を受けたのはこの時と終戦直前の7月末、倉橋島で空襲を受けた2回だけであり、一度も泳ぐことは無かった。
65年経過しても、この日のことを何時も思い出す。  伊藤正敬
[PR]
by naniwa-navy | 2010-01-31 20:33 | 思い出

by naniwa-navy
プロフィールを見る
画像一覧
カテゴリ
全体
日記
連絡
お知らせ
訃報
書きもの
挨拶
報告
お尋ね
鎮魂
写真
お詫び
意見
テスト
お見舞い
思い出
情報
戦記
未分類
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
人気ジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧