なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
カテゴリ:戦記( 9 )
戦記 震洋艇 豊廣
震洋艇の戦闘 豊廣 稔
(動画茂あります)
 わたし、駆逐艦乗りを目指してたんですよ。駆逐艦「刈萱」に最初乗って、それから、その次に、刈萱をおりて、駆逐艦「浜波」というのに乗ったんです。浜波が最後でね、浜波に乗っていて海軍中尉になったころかな、中尉に進級したころに佐世保に行けと、佐世保軍港のほうに行けと言われて転勤になった。
そしたら、佐世保鎮守府付きということで何も具体的になくて。それで帰って、しばらく待って、一晩待てというようなことでね、待たされて。それで、「君は、震洋隊というところへ行くんだ」と。震洋隊って初めて聞く名前でしたよね。
Q:震洋隊に行けと言ったときは、震洋隊がどういう部隊かということは説明はなかったですか。
 
 うん、説明はねあった。一言だけね。その訓練所の司令というのかな、海軍大佐の司令、何とおっしゃいましたか。名前はど忘れして。あのう、すぐ思い出す人ですけどね、震洋隊ちゅうのがいるんだと。それで、ちっこい船だけど、それの指揮官ちゅうか隊長で行くんだと。その震洋隊は何する船かというとね、「なーに、体当たりだ」ちゅうて、その一言でしたよ、説明は。だから、体当たりなんていやだなと思いながら、それであくる日、震洋艇を見てくれと、見ろというわけでね。見に行ったら、これがちゃっちな船でね。木造の船でしょう。こんな木っ端みたいな船でね、どういうことをやればいいんだと非常に疑問に思ったですな。
それで日にちが経ってね、訓練をこう徐々に受けていくんですよ。訓練ちゅうて、1艇、まあ基本的には1艇に1人乗りと・・それで、12隻を1組にして1個艇隊ちゅうんですか。それが4個艇隊あって、4個艇隊を一括りにして1部隊と。僕らがなったのは、その1部隊の部隊長ですわ。まあ若いのにね、22ですよ。まだ大学生ね。それでもまあ、兵隊ちゅうところはそういうところで、若くても関係ないと。やる気があればねできるんだと。というようなことで、まあ自分も納得してやりましたけどね。だんだんだんだんね、その震洋艇ちゅうか震洋隊が好きになった。これは不思議ですね。だんだんだんだん愛着が出てきてね、それでなれ親しんできた。で、最後のときには、まあ沖縄行きと。沖縄が玉砕の島だとはね、最初思ってなかった。

そういうことがね、考えられたようだけど、机上の空論というかな。やろうと、やりたかったのは誰一人いないよな。そういうね、脱出方法を最終的に設定しておかないとね、ちょっとね、やっぱり気がとがめたちゅうか、いけないことだと上層部も思ったんでしょう。特攻ちゅうのがまだそんな流行ないころだからね。

 いや、それはね、脱出の方法はね、考えられているけどなかなか脱出はねできがたいだろう。敵前でね、弾が飛んでくる中でね、悠々とね、目的も果たしてないでね、脱出するやつはいないよなというようなことでね、だんだんだんだん納得してきた。

Q:じゃあ、脱出できるとか何とかって言われてたけど。

 うん、あまり関心事じゃなかったです。ああ、そうか、そういうこともできるかちゅう。ハンドルを固定してそのまま行けばいいんだけど、で、自分は脱出すればいいんだけど、今度はね、人が乗ってないとね、とんでもない方向に木の葉のごとく行くんだよ。バーッちゅうてね。こっちのほうに行ったらさ、何にもならないじゃない、敵前でね。だから、そ基地から発進をして、それで敵前までこう隊を組んでいって、それでバラバラになって突っ込んでね。で、大体輸送船、輸送船をね、商船ですね、商船を狙うのが主眼だったですよ。軍艦はとても狙らえないだろうと。鋼鉄の船にね、木っ端のような木造の船がどれほどのあれがあるんだと、そこまで考えたんでしょう、軍令部ちゅうところがね。それで輸送船、

 そういうのこそ震洋艇で十分。震洋隊でやっつけてしまえと。というふうな考えで、やっぱり上陸しそうなところ、沖縄とか奄美大島とか台湾とか、そういうところに全部配備したわけですよ。

 1船にね、1船って上陸用の敵軍の大きな船を。上陸用の船団のまあ母船みたいなものですね。それで、前のほうがパックリ開いて上陸用舟艇を出すわけでしょう、映画なんか見ると。上陸の艇を、パックリ開けて出る前の輸送船をやっつけるのが震洋艇の任務みたいなふうにね、受け取っていましたですね。そういうのに、1隻につき震洋艇が2隻こう体当たりをしてね、沈めると。敵も大痛手でね、一目散に逃げて帰るだろうと。敵って、アメリカがというぐらいの考えだったですな。

 最初、沖縄にね、アメリカが攻め込んでくるなんて思ってなかったから。だから、意気揚々と沖縄に乗り込んでいったわけだ。だんだん、実情がわかってきて。「よし。それじゃあ、そういう運命のベルトに乗ったんだから、それは死ぬのは覚悟の上だ」と。それはみんながそう思ってましたね、兵隊はね。だったら艇もろともだと。若い連中だか

 ツルハシとスコップ、それで発破ね。やっぱりこう、沖縄金武の海岸には山があるわけじゃない。ただ、山襞(やまひだ)がね、バーッと2~3本こう伸びていて、あの海岸線までね。その山襞が若干壕を掘れるかなというような、こう小山に。小山のこうなだらかな襞が、襞みたいなものができていて。その山襞に穴を掘ったんですね。その穴掘りに苦労惨憺(さんたん)していた時期がある。

Q:大変な作業なんですか?

 大変な作業ですよ。もう、あのう、昼夜兼行でね、輪番制で。それで、その輪番制の、何ですか、監督に兵曹長が出てやったり。あんなことをするからね、日本海軍は負けるんだ。段取りが悪くてね。ちゃんと設営隊ちゅうのが行ってるんだけど、設営隊がね、怠けてたのかどうか知らんけど、何にもしてないわけですよ。結局、線引きばっかりしてね、実際に自分たちは掘る力もない。理屈はわかるわけだな、やっぱりそういう専門の集団だから。でも、実際に労力を注入して1本でも2本でも穴を掘ったのは僕ら自身なんだ。実戦、敵が来たら実戦するやつらがね。そんなことでは負けるよ。


Q:豊廣さんとしては、この日に訓練をしようと思った一番の理由は?

 一番の理由は、とにかくその穴に艇を格納しなくちゃいけないと。それには、その辺の草むらに隠してある艇をね、全部一応海に浮かべて、それで海を経由してその穴、防空壕ができたところの海岸に乗り上げて。そこから運んで、車で運んでね。トロッコちゅうか、それに乗っけて運んで。もう大変な難渋ですよ、作業としてもね。そういう作業をやらなくちゃならないから、せっかく艇を海に浮かべたんだから、みんなが期待をしてる、待ちに待ってる訓練をしようじゃないかちゅうていう考えに至ったわけですね。

Q:皆さん訓練したがってたんですか。

 うん、それはやっぱりそうだ。穴掘りばっかりしていて、だれだっていやになりますよ。皆若いんだからね、穴掘りばっかりさせられるよりね、海の大海原に出てさ、訓練で波しぶきをかぶってね、訓練したほうがよっぽど楽しいかわからん。そういうね、本能的なものがあるのはわかっていた。だから、やろうということで。敵機が、敵の偵察機が来るよちゅうのは漠然とはわかってたけど、いつ何時ごろどうのこうのちゅうのはね、司令部が全然おろそかにして、我々に伝えてないんですよな。いろんなことが重なっちゃってね。

Q:現場の判断としては、真っ昼間に訓練をやったら危ないかなとは思わなかったですか?

 それはもう後日談でね、当時としてはそういうことは思わなかったな。それよりも隊員が喜ぶだろうと。とか、ちょうどいい機会じゃないかと。労力は3分の1ぐらいでね、3つの効力が発生するとかね。そういうことを先に思ったですね。敵のそういう爆撃機がね、近海まで遊弋(ゆうよく)してきて、海に出たら大変だと、食われるぞというあれが薄かったんですな。

Q:実際、訓練を始めたら、搭乗員の方ってどんな様子でした。

喜んでましたよ。喜々としてましたよ、波しぶきがバーッとかかるんだから。高速で走るからね。

 バーッと高速で走るのはね痛快でいいんだけど、ちょっと敵機、飛行機が、大型の飛行機があそこを通りまして、隊員が気づいたんですよね。あそこを通りますというのは、島影、湾口にこう島影がずーっと並んでるんですが、その島影にこう隠れるような低空ですね。低空で全然エンジンの音をたてないで、それこそグライダーみたいにスルスルスルスルスルスルスルスルって、僕らの艇とね、艇が行くのとね、こっちはゆったりゆったり走ってたんだけど、それと同じような速度でスルスルスルスル前のほうに出ていく飛行機がいる。「ああ、変な飛行機だな、あいつは。うさんくさい飛行機だな」と思いましたですよね。で、「いや、あれはふだんあまり見かけない日本の飛行艇よ」と。と、最初はそういう認識だった。飛行艇だったら何も害はないと。だが、うさんくさいから、ちょっとやり過ごそうじゃないかと。しばらく止まれと。一時停止的なね。エンジンを切るまでいかなかったけど、クラッチを切って、ソクリョウホウを止めて。じっとね、こう動線を見てみようと思った。そしたら、その飛行艇がね、ちょっと書いたものもあるけど、そのう500メートルですかね、700~800メートルのところでバーッと僕らの前をね、こう、斜めになってね旋回を始めた。バーッと回ってきてさ、真っ正面から僕らのほうに突っ込んでくる態勢をとった。「あ、これは大変だ。何だ。何だろう、敵の飛行艇かな? 飛行艇かな、ちょっと解せないな」というぐらいの程度でね、ちょっと目をそらさないで見ていた。そしたら、バーッとこう目の前、例えば500メートルとか、700~800メートルのところでグラッと傾いてね、まぎり始めたんですな。そしたら飛行艇のね、アメリカのB24のこの尾翼ね、垂直尾翼ちゅうて、こう両端に丸い尾翼があるんですよね。あれ、もう一発でわかった。あれは特殊な尾翼だから。コンソリだちゅうていうことでね。それでね、ようしと、もうちょっとね、これは困っちゃった。「進退きわまれりだな、これは。今からソクリョウを出して逃げたってね、間に合わないしな」ということで。これはもう、艇を捨てるよりしょうがないなと。艇12隻捨てようと。という構図が頭に浮かんだんですよね。だから、もういいからね、艇を捨てろ。捨ててね、君たちの命を現在は優先するよというようなことから、「飛び込め」ちゅうて言ったんだね。

Q:豊廣さんが飛び込め。

 うん、僕が飛び込め。

Q:具体的にどんな指示をされたんですか、そのとき。大きい声で言ったんですか。

 大きい声で言ったって届かない。届かないから僕も飛び込んでみせた。自分がね、真っ先に飛び込むなんてしょうもないと思われるきらいがあるけどね、そうでもしないとね、即刻の行動につながらないです。ぼんやり、あれよあれよ、どういうあれになるかなと思ってるとね、やられちゃう。それこそ、バーッとおりて、飛行機だから。それで、すぐ下のほうの射撃窓口から大きな13ミリかね、20ミリの銃を出してねらうでしょう。のろのろ走ってる震洋艇12隻をみんな狙い撃ちにしたんですよね。だから、そこで総勢19人がそのとき死んだのですね。それが不運のつき始め。

Q:訓練はちょっとすべきじゃなかったかなとか思いました? そのとき。

 思いましたね。失敗したとね。失敗だった。なぜ失敗だったんだ。昼間訓練しちゃあだめだよというのをね、厳命されてなかったな。厳命されておりゃやらないんだけど。ちょうどいい機会だ、このチャンスを逃したらできないと踏んだんですよね。

 特攻で震洋隊の艇がね、生き残って帰ってくるなんて、もう露にも思わなかったですね。やっぱり特攻隊という以上はね、出ていったら当然帰ってこないだろうと。僕は海岸線、海岸べたで寝てたんですよ。どういう報告が来るかなと思ってね。そしたら夜中に、そうですね明け方でしょうね、明け方の4時かその辺ですよね。もうそろそろこう頭が起きて、起き上がってくるころに「部隊長、部隊長」って僕を起こすやつがいる。それが市川兵曹だった。市川ちゅうのはね、先任搭乗員。この人が報告に来て、「いやあ、会敵いたしませんでした」ちゅうていうようなことでね、帰ってきた理由をね簡単にあれして、報告して。「ああ、そうか。ご苦労だった」ちゅうて。「じゃあ、ゆっくり休め」というようなことで、それまでですよ。なぜ、どうして帰ってきたかなぞ、ない。

Q:帰ってきたというのはびっくりしました?

 そう、びっくりしましたね。どっちかというとね。もう一口に特攻隊というのは帰ってこないだろうと、100%帰ってこないだろうと。あのときね、飛行機の神風特攻がいつ・・神風特攻はね、とにかくそれ以後に起きたことなんですよね、多分。わたしが川棚に行ってるときに神風特攻ちゅうのがあったというのを聞きましたけどね。新聞にも載ったし。それ以前に震洋の特攻ちゅうのはね、もう発令されていた。それで、そのために行動を我々は起こした。だから最初に戦果が上がってりゃあ、我々が第1発目の成功談になるわけだった。第1発目の成功談になる先輩としてはコレヒドールがあるわけだ。コレヒドールで何もしなかったでしょう? 何もできなかったでしょう、敵のあれが激しくてね。その次が沖縄だったんですが。沖縄も我々のいた金武湾の2隊ですね。

 2回目はね、井本部隊の艇が帰ってきたのよね。やっぱり途中ではぐれちゃったか、まあ突っ込みはしなかったんだけど、グループから外れてね、帰ってきた艇がある。その艇がね、またよけいなことを報告したんですよね。「今すぐ、即刻出撃したらね、中城湾の沖に敵艦がうようよしてます」と。こんな報告だったですな。表現は別かも、別のあれかもわからん。とにかく、「今出撃するなら敵に必ず、90%会敵します。お願いします」って。自分らはのうのうと帰ってきた。僕はね、1回目に会敵しないで帰ってきたわけだから、「ようし、2回目はやっちゃろうじゃないか」ちゅうようなことで。

 すぐ出撃ちゅうのはね、出撃の司令部の命令なんか待ってたら、待っちゃおれないよと。戦果を上げりゃあいいんでしょうというようなね、どっちかというと今ふうのね、考え方が先行しちゃって。「よし、もう行こう」と。「行け」と。ということで「じゃあ、今度はわたしが行きます」って、中川さんちゅうのが自分で志願したから「じゃあ、中川さん、行ってくれ。おれは一番最後に行くからね」ちゅうていうようなことでね、中川さんを出したけど、これもまた帰ってくるんだね。結果的にね。

Q:2回目もだめで帰ってきたときというのはどう思いました。 2回連続失敗して。

 うーん、帰ってきたのまではいいけど、それを海岸線につないで、つなぎっぱなしでね。
あのね、もうとてもこれは引き揚げてる暇はないよと。引き揚げてる最中にさ機銃掃射が来たり、爆弾が飛んできたりするとね、いずれにしてもね、爆弾を抱えてる艇だからもう一発ですよ、とね。そこまでやれないと。じゃあどっか隠せというようなね、ということで、

 ユナギの木ちゅうんですか、沖縄の特殊の木が枝を出してね、上空から見るとね、艇が隠れるんじゃないかと思うようなところがあったの。で、そこに隠せと。艇を隠してしまえと。それで擬装をね、しっかりせいと。というようなことにしたと思います。したんですよね。そのようにしたと。それは、完全に、どの程度完全にしたのか。その結果、でき上がりを僕は見なかったからね。満足できない状態でほったらかしていたのか。もう早かったですね、艦載機が、空襲が。

Q:岸に戻ったらすぐ。

 ああ、もうすぐ来るぐらいの。朝飯を食う暇もないぐらい。だから、ちょっと隠しおおせないところがあったのかな。それが発見されて、1発機銃掃射を受ければね、もう全部、爆弾を抱えてるんだから、1発ボーンといきゃあおしまいですよ。原爆じゃないけど。そういう状況で、2回目出撃をした12隻が全部やられたですな。1隻も残らないで。

 もう本当に、神隠しに遭ったように、艇がね1隻も。大爆発を起こして、なかった。昼間ね、防空壕にいるときね、ものすごい大きな揺れちゅうかな、爆風が過ぎたような気がしたんですよ。ああ、随分きつい爆風だなと思って。それはね、震洋艇が12隻だったんだか、10隻だったんだか、みんな爆弾が一緒に爆発したんですね。あれは震洋艇の爆弾、爆装ちゅうのは、えーと幾らだったかな、資料を見りゃあある。

Q:250。

 250。250が10隻にしてもね、2、000~3、000トンの爆弾が落ちたような爆風になっちゃうわけですよね。そういうことでね、あのときはがっかりしましたですね。ああ、これは失敗したなと思ってね。余計なことをしないでおけばよかったとかね。それを司令部に報告をしたかどうか。報告すべきではあるんだけど、報告したかどうかもわかんないね。その当時の資料が、電報つづりでも見ないと、したかしないか確認できないね。

 艇を、海に浮かべることがね、もう至難のわざにだんだんなってきたの。というのは、爆撃であちこち穴があいてるわけですよ。そこのところをね、よけて、それで爆装したちゅうかな、400キロの爆弾を中に抱えたね、震洋艇を海に引きずり出すと。これは大変な作業ですよ。それをさ、12隻一緒にやれなんて言われたってね。自分らが体験してない、命令だけ下してる人たちの考えじゃあね、簡単だろうけどね、そうは参らないわけです。だから6隻ぐらい、浮かべるのがね、もう精一杯ですよね。最終的にはね、僕が最後的に出撃したときはそうだったですね。

 これがリヤカーね。で、これへ前のほうに400キロかな、三百何キロだけど、を積んでいるあれで。自重があるんだから脆弱なリヤカーだとね、へしゃげちゃうのよ。そのなぜへしゃげるかちゅうとね、陸上から爆薬を積んでね、重い状態で砂浜におりていくとね、砂浜がこう整地されたりコンクリートで固めてないからね、凹地にドスンと入っちゃうの。この車輪がね。と、そのリヤカーがね、こんな鉄パイプでできたようなリヤカーなもんだからね、ぜい弱ね。

Q:実際に出撃予定時刻に間に合ったのは結局何隻でした?

 予定時刻に間に合ったのは5隻。

Q:5隻というのはやっぱり相当少ないですか。

 少ないですね。しかも隊長が指揮していくちゅうからね、隊長が指揮していくのは12隻出なくちゃいけないんだけど、12隻出すにはもう夜中回っちゃうからね。

 5隻こう単縦陣でね、出ていって。そして、やっぱり敵は近くにありというような感覚があったもんだから、あまりね派手なね、行動をするとめっかるだろうと。だから、岸辺に寄ったような格好でね。そういう陸地に寄り添うような格好で行くと目立たないんですわな。行って、そして、ずっと湾口に向かってね・・湾口ちゅうて、本当は湾口じゃないんだけど。島の間なんですけどね、を抜けて外海に出ればいい。外海に出るまでね、またこれが金武の基地から外海に出るのが大変なんですよ、これは。1時間か1時間半ぐらいかかるけどね。あんまり高速で走ると水をかぶってエンジンがストップするから。ボロ兵器だからね。で、エンジンが止まらない程度に速力で走って。
 そしたらね、やっぱりこれはもう後の祭りだけど、金武に行ってね訓練を、昼間は1遍、3月14日にやったんだけど、あれじゃなくてね、夜ね、夜の状況、夜の見え方をね、本当はね、繰り返し繰り返しやっぱりやって頭に入れておかなきゃならんでしょう。 それをやってないもんだからね、僕自身が判断をミスったんですよね。その、金武湾のね、金武湾のあそこの出口のあたりにね、アメリカの輸送船、輸送船ですね。輸送船みたいな大きな岩がね、ドカーッと2つぐらいあるわけですよ。ちっこな、ちっこい岩がね、また数個、数十個だかなあって、これ、アメリカが金武湾の入り口付近に上陸中というね、想定が・・それに引っかかったんですよ。

だから、それに向かって突っ込んだ。ずーっと突っ込んだんです。突っ込んだら、途中までその攻撃をしかけたところでね、「ああ、これはおかしい」というのに気づいて。それで、ちょっと止まれ。

   
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by naniwa-navy | 2011-10-05 10:15 | 戦記
戦記 浅村 晃司(トラック島)
浅村 晃司

 小生はトラック島の海軍警備隊の司令付であった。トラック諸島は南太平洋にある広大な珊瑚礁に囲まれた日本海軍の重要な基地であり、その中に幾つかの大きな島があり、それぞれ警備隊が配置されて居た。終戦の年の11月に米軍が進駐して来た。米軍の指令によって各海軍部隊は日本海軍航空隊が使用して居た飛行場のある春島に集結し、作業隊を編成した。
 それは千三百Mの滑走路をB-29の様な大型機が発着出来る様に五百米延長する工事が米軍の主要目的であった。それから米軍が駐留するための居住施設の建設、道路の整備、水源地ダムの構築、その他色々な雑役もあった。毎朝、8時に作業隊は乙女峠の広場に集合した。間もなく米軍の下士官が来て無差別に必要な人員をそれぞれの受け持ち場所へ連れて行く。土木の現場は皆苛酷であり、作業員は大変怖がった。それに較べると仮設映画館や酒保の清掃炊事の仕事は楽で時には余り物をもらい喜んでいた。

 土木の中でも特にセーム・フローマン中尉の監督下にある水源地ダムの建設工事は苛酷そのものであった。フローマン中尉は24歳の青年で小生も同じ年で大尉であった。小生の仕事は作業員の監督、フローマン中尉との折衝、通訳で、若い士官が8人起居を共にしていたが、土木専門の士官が一度セーム・フローマンの現場で酷い目にあい誰一人行こうとしなかった。そこで小生はこの仕事をやるのは自分しかいないと思いこの仕事を最後まで全うしようと決意した。

 フローマン中尉には2人の陰険な部下がいた。我々はフローマンのことを鬼中尉と呼び、部下の一人をFOX(顔が長くて狐(きつね)に似ている)と呼んでいた。もう一人をMONKEY(顔が赤く猿に似ている)と呼んでいた。後で聞いた話だがフローマンの親友が沖縄戦線で戦死して居るので日本人を「ジャプ」と呼び敵意を持っていた。彼等は作業員を奴隷の様に扱った。作業員が少しでも手を休めると容赦なく罰を課した。重い石を一時間くらい持たせるとか、スコップで地面に直径60センチ、深さ1メートルくらいの穴を掘り、次に埋める。また掘って、埋める。この仕事を一時間くらいやらせる。正に真綿で首を締める様な罰である。
 小生は思いきってフローマン中尉にかけあった。「兵士を罰するには日本海軍のやりかたがある。鉄拳制裁(拳固で相手の頬を思いっきり殴ること)でやらせて貰いたい。」と申し出た。彼はしばらく考えて「OK」と言ってくれた。早速兵士に告げた。これから若しフオックスやモンキーが君達を罰しろと言ったら「俺が頬を思いっきり二発なぐる」がどうかと提案すると其の方が良いと言って同意してくれた。完成まで2ヶ月毎日、約80名の兵士と力を合わせて頑張ったが、毎日2名くらいは、鉄拳制裁を心で詫びながらやったと思う。ある時昼休みに椰子の木陰で寝転んでいると「浅村大尉」と呼ぶものがいた。それは午前中に鉄拳制裁をした荒井という師範学校卒の下士官で小生よりも2.3年上であったかも知れない。混成部隊だから小生の部下ではない。名前はその時始めて知った。
 彼が「酒保のドラム缶の中で拾ったチョコレートですが食べられませんか」といって2センチ角で6センチくらいのチョコレートを二本くれた。「今朝はすまなんだ。チョコレート有難くいただくよ。あと暫くだ。復員までお互いに歯をくいしばって頑張ろう」といって彼の手を握り締めた。
 米軍の酒保ではチョコレートが少しでもかびていると箱ごとドラム缶に捨てるのを荒井兵曹が拾って来たのである。アメリカの物資の豊さに改めて驚嘆した次第である。
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by naniwa-navy | 2011-10-04 09:18 | 戦記
戦記 生駒山上空の空戦 (相澤善三郎) 有志会員Aさんのブログから
生駒山上空の空戦 (相澤善三郎) 有志会員Aさんのブログから

 最近、内地防空関係の本を読んでいておもしろい撃墜記録を見つけました。
↑「おもしろい」っても、「笑える」って意味じゃないですから。
「へえ、こんなこともあるんだー」とびっくりしたというか何というか。

 昭和20年1月(ご本人の回想によると(「20日ごろ」)。
 鳴尾基地で関西方面の防空を担当していた332空の相澤善三郎中尉(兵72期)。
この日、日本海側から太平洋に向かって抜けようとしていたF13(B29の偵察機型)発見の報に接し、同期の松木亮司中尉とともに「それっ!」と邀撃に上がります。
 この日の相澤中尉の乗機は零戦。 332空は、対大型爆撃迎撃用に作られた雷電配備の部隊で、相澤中尉もふだんは雷電に乗っています。
なのに、え?  零戦でF13に立ち向かっていったの?   ちょっとびっくり。
 ママのイメージでは、B29というのは高度10000メートルぐらいのところを悠々と侵入してきて、日本軍の迎撃機がハアハア言いながら上がってきた頃にはもうそこらへんにいない、みたいな・・・・。
 B29ってあんなに大きいのに逃げ足が速いらしいですね。爆弾を落として身軽になったあとなど、あっという間に姿が見えなくなるというか・・・・。
 B29ですらそうなので、それの偵察機型ということは、最初から爆弾は積んでいない(つまり身軽)、爆撃照準や編隊行動の制限もないから好きなように回避行動が取れる、ということで、ただでさえ落としにくいB29よりさらに落としにくいのでは?
 それを零戦で追っかけようというのだから、すごい!
そもそも零戦で高度10000メートルまで上がれるのかな、動けるのかなと思うのですが、この日の相澤中尉の零戦は10000メートル以上上がれるようにエンジンを調整してあったのだとか。
そして、期待にたがわず、一緒に上がった松木中尉を置き去りにしてぐんぐん上昇していきます。
11000メートルまで上がったときには、目標のF13はちょうど相澤中尉のほうに向かってくるような好位置に占位していました。
 静かにそっと旋回し、近づいてから20ミリ機銃を撃ち込む相澤中尉。
機銃弾は吸い込まれるようにF13に向かって飛んでいったとか。
(相手から反撃があったかどうかは不明)
攻撃できる時間などほんの数秒のことだったでしょう。
ハッとして見たら、F13の主翼、エンジンのあたりから黒煙を噴きながら、そのまま南のほうに飛び去っていったそうです。
 ご本人は自覚はなかったようですが、基地に戻ってから他の部隊から米軍機1機が潮岬沖に落ちたと知らされ、他に該当する空戦もなかったことから、相澤中尉が火を噴かせたF13と認定されました。
 もう64年ほど経ちますが、相澤中尉がF13と一騎打ちをした生駒山の上空。平成20年12月11日のそこは平和な空です。
わたしは母に、
「ばあちゃんに戦争中のことは聞いたらいかんよ」
と釘を刺されていたので、祖母に聞いたことはありません。
母は19年生まれなので聞いてもわかりません。
 今年になってかな、皇統護持作戦のために杉安にやってきた343空の3人(大村大尉、加藤大尉、ホリブン)のことを聞くために、終戦時10歳だったおばに電話をしたとき、
「戦争中は大阪にいて、終戦後すぐに宮崎に帰ってきた」 みたいな話を聞きました。
ということは、うちの母は1歳の頃まで大阪にいたってことか?
うちの祖母や母がいた大阪の町を命をかけて守ってくれていた人たちがいたんだなあ・・・・。いや、いまもお元気にされている姿を見て、なんだか胸がいっぱいになりました。
参考:なにわ会HP戦記、渡辺洋二『局地戦闘機 雷電』文春文庫
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by naniwa-navy | 2011-10-04 09:15 | 戦記
瑞鶴のご真影(購読会員Aさんのブログから)
瑞鶴のご真影(購読会員Aさんのブログから)

 今日、図書館に行って神野正美さんの『空母瑞鶴』を借りてきました。 瑞鶴のご真影運び出しの詳しい状況がわかりました。
 総員上甲板命令が出てから、副長からご真影の運び出し命令を受けたのは庶務主任の大畠永弘さんです(当時、少尉か?)。
 戦闘開始前に最下甲板の高角砲発令所に移してあったお写真を、艦橋から取りに戻ろうとしたけれど、下から上がってくる機関科員、応急員のために難儀していたところ、一人の兵隊が箱入りのお写真を持って上がってきてくれたそうです。
 副長附甲板士官だった足立喜次中尉(兵72期)も貝塚艦長から「お写真を上げろ」と命令され、甲板下へ向かったそうですが、下から上がってきた兵員に、「お写真は上に上がった」と教えられ、下には行かなかったようです。
 総員退艦のときになって、左舷甲板上にいた大畠さんと足立中尉は一緒に海に入ります。足立中尉も艦長にお写真のことを命じられていたことから、お写真を背負っていた大畠さんと一緒にお写真を守ろうと思われたのではないでしょうか。
 重油の海を泳いでいると、『初月』が救助にきました。しかし、お写真を背負っている大畠さんや足立中尉には気づかずに、泳いでいる人間の三分の一ほどを救助して去っていったそうです。
 のとき取り残された人たちはどんなにがっかりし、絶望したことかと思います。
そのまま二時間ほど、うねりに身を任せて材木につかまっていると今度は『若月』がやってきました。大畠さんは、今度こそ乗らねば、と思ったそうです。
「足立中尉、泳ぎましょう」
「よし泳ごう。お写真は大丈夫か。おれが持って行こうか」
「大丈夫です」
 このとき大畠さんは、どうせお守りして泳ぐならば最後まで自分で持って泳ぎたい。人に渡すのは残念だ、という気持ちで足立中尉の申し出を断ったということでした。
ところが、やはりお写真を持って泳いでいると、どうしても遅れがちになり、だんだん足立中尉に離されてしまいます。
「おーい! 庶務主任早く来いよ」待っていてくれたので泳ぎつきます。
「おれが持って行ってやろう」
 ここでやっと大畠さんも意地を張っていられないとお写真を足立中尉にゆだねます。
 100メートルほど泳いで、やっと『若月』に救助されました。
 これが、平和な海水浴場での話なら、 「ああ、微笑ましい男の友情」
で済むのでしょうが、二人が泳いでいるのは戦場の海。しかも、目の前の『若月』に拾い上げてもらわなければ、永遠にそこに取り残されてしまう可能性があるのです。
 自分だけ助かりたければ、戦友を置いてさっさと泳いで行ってしまうとか、お写真を放り出してしまうとか、他にも道はあったのかもしれませんが、二人は助け合いながら、お写真も守り通しました。わたしはそのことにすごく感動しました。
 余談ですが、二人が最初に救ってもらえなかった『初月』は、救助した瑞鶴の乗員を乗せたまま、その日の夜戦で米水雷戦隊と果敢に戦い沈められてしまいました。
人の運命って・・・・。
参考:神野正美『空母瑞鶴』光人社

これに対して私のコメント(2008年05月04日 11時54分53秒)
 ご真影運び出しの状況有り難うございました。この前,運びだしたのは72期の足立喜次と経33期の足立暢也と書きましたが,足立暢也は転勤して大畠少尉に代わっていたのでしょう。
早く救助された『初月』がその夜沈んで,『若月』の方は助かったということ,まったく運命ですね。なにわ会ブログに要旨転載させていただきました。
Aさん (2008年05月04日 20時20分48秒)
了解しました。
本当に、あの当時の話を読んでいると、「運」とか「運命」とか、人間の力以外のものを強く感じます。数秒前まで自分がいたところに爆弾が落ちたとか、初月のように、救助されなかったことが結果的にかえって助かったとか。 そういう経験をされると、以後の人生観とか変わるのでしょうね・・・・。

この記事は2008年5月にブログに掲載したが、再度掲載します。
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by naniwa-navy | 2011-10-04 09:10 | 戦記
戦記 大槻敏直
大槻敏直が代表の有限会社 丸百のHP
 代表者は大槻敏直で資本金800万円従業員9名で桧材を制作している。
大槻 敏直は海軍兵学校卒(72期)、アイシン精機を経て(有)丸百に就職、
S26年 大槻材木店創業、S49年 製材部門(有限会社丸百)と小売部門(大槻材木店)を分離した。
多数の写真を使って会社の内容を紹介している。
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by naniwa-navy | 2011-10-03 05:59 | 戦記
戦記 国本鎮雄
国本鎮雄の記事
1 室蘭日報 2005年12月25日付朝刊の記事
  「男たちの大和」一般鑑賞会で國本さん講演
 「戦艦大和」を題材にした映画「男たちの大和」の一般観賞会が23日、室蘭市東町の室蘭劇場で開かれ、大勢の市民が平和の大切さを胸に刻み込んだ。上映に先立ち、本道出身者で唯一の生存者、國本鎮雄さん(81)=室蘭市輪西町在住=が講演。「部下を戦死させて残念」と述べた。
 國本さんは昭和20年4月、大和海上特別攻撃艦隊の一員として沖縄に向けて出撃した。副長補佐官で防御総指揮を補佐した。
 戦闘開始から大和が沈没するまでの状況について、10年前に本紙で掲載した記事などを引用して語った。「戦闘はし烈を極め、間もなく大和にも被害が出始めた。船体は次第に傾斜して操縦が困難に陥り、沈没した」という。
 艦内の状況に触れ「出口を間違った部下に『待て』と叫んだが、誰も気付かなかった」などと混乱する様子を詳細に証言し、「自分1人が助かり、多くの部下を戦死させた。残念です」と悔しさをにじませていた。

2 沈没時戦艦大和の「生存者」の名前が掲載されているなかに、国本 鎮雄がある。

3 国本戦車塾出版
  大和出撃
 我が伯父国本鎮雄は、レイテ海戦のシブヤン海に阿武隈に乗艦して出撃、海戦によって大破し日本に帰還途中にB24によって撃沈されるが辛くも生還した。
 大和の沖縄特攻作戦にも副長付甲板士官として参加、米軍機の集中攻撃を浴びて撃沈され、数千人の乗員の内、僅かに269人が生還した。伯父はその生還者の一人である。
 終戦時東京で海上特攻部隊として待機していた所、最後の大型艦としてアメリカ太平洋艦隊に降伏使節団を送る役目を果たした。米艦隊のミズリー号以下に使節団を送り、米艦隊を先導したという。その奇跡の人の戦記を中心とした物語である。

4 進駐して来た米艦隊の水先案内
 この水先案内の事は同じく初桜砲術長の国本鎮雄氏(左近允氏と同期、大和の数少ない生存者の一人でもある)も回想を残していました。
 「8月25日の夜になって、軍使14名が乗艦した。海軍軍令部と参謀本部の要員であって、この中に同期の野村治男大尉がいた。
米艦隊の水先案内を務めるとのことで、この要員を米艦隊旗艦の「ミズーリ号」へ送って、降服・占領・日本軍解体の手順を決定するのが、第1の任務であった。
8月26日の朝、檣頭に白旗を掲げ、カバーを掛けた砲銃の砲口を一杯に下げて、横須賀港を出港した。
翌27日、伊豆大島沖で米大艦隊に会合したが、「ミズーリ号」を中心に、艦艇無数の大艦隊が、たった1隻の小型駆逐艦「初桜」へ向かって全砲口を集中し、威嚇しながら接近して来た。
洋上に停止した「初桜」へ先頭の米駆逐艦が接舷して軍使を乗せ、「ミズーリ号」へ送った。
 この米艦隊を先導して鎌倉の沖に残らず仮泊させた頃には、日も暮れており、間もなく軍使が無事に帰って来た。文官の軍使はともかく、武官の軍使は、会談中帯刀も許されず、武人として恥ずかしめを受けたと、皆泣いていた。」
 要員の野村治男氏の談話もあります。
 「昭和20年8月27日朝、伊豆大島の135度、20浬附近で、駆逐艦初桜から米駆逐艦へ向った。初桜では左近允、国本両君が見送ってくれた。
 胸の片隅には、如何な処遇を受けるものか一抹の不安がわだかまっていた。だが、一歩米艦に乗った途端、我々を取り巻いたのは報道関係者で、握手を求め乍ら先ず発した質問は、「日本国民はアメリカに対してどんな感情を持っているか?」というのと、「もしアメリカが第3国と戦争を始めたら、日本は何方につくか?」と言うものであった。
 この駆逐艦から、大本営の参謀など、国本君が言うところの軍使なる人はミズリーに移された。彼等は「敗者の代理人」としての処遇であったと聞く。だが我々水先案内人は、アメリカ艦船では、お客様扱い(乗組員が言うには)で、階級が下の中少尉は、通路で逢うと道を譲って先に敬礼をした。」

5 国本鎮雄の息子の医院の記事から
  国本鎮雄の経歴
    大正13年7月9日  室蘭市大町生まれ。
    昭和12年      室蘭市武揚尋常高等学校卒業
    昭和12年      北海道立室蘭中学校入学
    昭和15年      4年にて海軍兵学校編入
    昭和18年      海軍兵学校72期卒業
    昭和25年      北海道大学医学部26期卒業
    昭和30年      父・亮平と室蘭市大町國本病院勤務
    昭和34年      室蘭市輪西町に国本耳鼻咽喉科を開設
    現在に至る
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by naniwa-navy | 2011-10-03 05:45 | 戦記
戦記 安藤昌彦
 安藤 昌彦 関連記事
 海軍兵学校72期でおられる安藤 昌彦さんのお話を拝聴させて頂きました。安藤さんは大正10年生まれの90歳。主な作戦地域としては、台湾、香港、海南島三亜、カムラン、サイゴン、ペナン、マラッカ、ルムト、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤ、パリカンゲアン等。仏印(現ベトナム)カムラン湾にて敵B-24爆撃機に撃墜されるも、泳いで島へたどりつき生還されたという凄まじいご経験をお持ちでした。具体的に地図を示しながら当時の戦闘の様子をご解説。(写真は当時の様子をバシバシと質問される笹幸恵さん)やはり実際に参加された方からのお話は、その辺の軍事評論家よりも数段リアルで分かりやすいですね。毎度ながら、先輩方のお話はホント勉強になります。
 「今の日本をどのように思われますか?」との問いに、安藤さん「平和に暮らすために『平和、平和』って言ってるけど、丸腰でそんな事言ったってしょうがないでしょう。
それを言うならもっと守りを固めなきゃね。」。
 更に続けて、「当時は一回の飛行でも、それこそ死を覚悟で戦闘飛行なされたと存じますが、正直軍の中でも逃げ出したり、またその様にあまり前向きではない方とかも実際はいらっしゃったという意見も一部ではある様なのですが、その辺りはいかがでしたでしょうか?」
 安藤さん「そんなのいる訳ないじゃない。戦争しに来てるんだから。一人もいませんよ。みんな国の事を考えてましたよ。」事実を事実のまま伝えていく事が大切ですね。

別の記事
安藤 昌彦(あんどう まさひこ)
 大正12年佐賀生まれ。87歳。
修猷館中学より昭和15年、海軍兵学校に入校(72期)。昭和18年9月、海兵卒業後、飛行学生(41期)となり、水上機搭乗を希望、鹿島航空隊で訓練を受ける。
昭和19年7月、飛行学生を卒業。第453海軍航空隊に配属、後に第936海軍航空隊に統合され、海上護衛総司令部の隷下として終戦まで水上偵察機専門の部隊で偵察、対潜哨戒、船団護衛等の任務を全うする。とりわけ零式三座水偵の搭乗員として、当時、最新であった磁器探知機を装備した機材で、対潜攻撃を専門とする。
主な作戦地域としては、台湾、香港、海南島三亜、カムラン、サイゴン、ペナン、マラッカ、ルムト、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤ、パリカンゲアン等。広大な地域を飛行したので、『JALパック』であったと自称する。
昭和20年2月、仏印(現ベトナム)カムラン湾にて敵B-24爆撃機に撃墜されるも、泳いで島へたどりつき生還。 スラバヤに於いて終戦を迎えた後、レンバン島捕虜収容所の連絡将校として任務にあたり復員。
安藤先生の講演の中で、水上偵察機は磁力を元に潜水艦などを探すとのことで、水蒸機内には金属は持ち込めないとの事でした。
安藤先生が任務で一番の苦しみは、拳銃を持ち込めなかったいうことなのです。
 この拳銃は、敵を撃つためのものではありません。
万が一敵の捕虜になった際、自害するためのものだということです。
捕虜になって拷問される苦しみ、国家を危険に陥れるくらいならば、自害を選ぶというのが当時の当たり前の感覚だったということが分かりました。
 この拳銃を持ち込めないので、上官にお願いし青酸カリを持たせてくれとお願いしたらしいのですが、上官は必ず手渡しで戻しに来いということを条件で渡したとのことです。
この話でわかるのは、沖縄の集団自決問題です。
当時の軍人は、捕虜になるくらいならば自決するという覚悟を持っていた。
 上官は自決しろなんてことは言わず、生きて帰ってこいと、青酸カリを持たすことにも反対したわけです。
日本軍の命令で集団自決があったということは、事実無根であるというこが、今回の講演ではわかる。 
安藤先生は福岡でも長く生活されていて、同じ福岡人としてご挨拶をさせて頂きました。
仲手川社長のブログ に紹介されていますが、「今の日本をどのように思われますか?」との問いに、
 安藤さん「平和に暮らすために『平和、平和』って言ってるけど、丸腰でそんな事言ったってしょうがないでしょう。それを言うならもっと守りを固めなきゃね。」。
更に続けて、
 「当時は一回の飛行でも、それこそ死を覚悟で戦闘飛行なされたと存じますが、正直軍の中でも逃げ出したり、またその様にあまり前向きではない方とかも実際はいらっしゃったという意見も一部ではある様なのですが、その辺りはいかがでしたでしょうか?」
安藤さん「そんなのいる訳ないじゃない。戦争しに来てるんだから。一人もいませんよ。みんな国の事を考えてましたよ。」
 今の日本と、当時の日本。
昔にあって、今にないもの。
 失ったものを取り返さない限り、日本の存続はありえないと確信しました。
 そのためにも、まずは目の前あることを取り組むしかないと思い、覚悟を決め取り組むしかないですね。
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by naniwa-navy | 2011-10-02 11:35 | 戦記
事故 国鉄桜木町事故
桜木町事故
 61年前の今日、昭和26年4月24日、横浜市の国鉄桜木町駅で、電車車両の火災が起き、たくさんの人が亡くなるという大惨事が起きました。 いわゆる「桜木町事故」です。
  この日、復員して6年目の会社員新庄浩さんは、事故直前一両目車両の吊皮につかまりながら前日の寝不足でうつらうつらしていました。
 突然パンタグラフから火の玉が落ち始め、車両の木製天井が燃えだしました。 その火は車内に延火し、座席にも火がつきます。 事後の調査によると、電気工事の作業員が誤ってスパナを落とし、固定されず垂れ下がった架線にこの電車のパンタグラフが絡まったための火災でした。
 車内はパニックになりました。 みんな争って2両目に逃げようと、扉に殺到します。 当時電車の車両連結部ドアは引き戸ではなく、手前に開く開き戸でした。 しかも外から施錠されていたといいます。
殺到した人々はドアを開けることもできず、後ろから押されて折り重なって倒れ、下になった人々は上の人に押しつぶされる阿鼻叫喚となりました。
 新庄さんはとっさに吊皮につかまったまま、器械体操の選手のように体を振幅させ、目の前の窓ガラスを両足で蹴破ります。当時の車両は小さな窓でしたが、そこから頭を出してみて、体が通ることを確かめた新庄さんは窓枠から脱出し地面に飛び降りました。
 「窓から地面まですごく高かった。私の破った窓ガラスにみんな争って手や足を突っ込んでいるのが見えた。続いて出ようとヤンキー(進駐軍兵士)が体を通すんだが、腹でつっかえて出られないんだ。」
死亡者106人、重軽傷者92人。火災の起こった一両目に乗っていて命を長らえることができたのは新庄さんただ一人だけだったのです。
 新庄さんは終戦時、海軍大尉。「桜花」と呼ばれる特攻隊の隊長でした。 零戦を駆って空で戦ったファイターだったのです。 瞬時の判断、行動力、胆力。 戦闘機乗りとしての資質と訓練が新庄さんの命を救ったといってよいのではないでしょうか。
 地面に一人降り立った新庄さんは、ガラスで切ったと思われる手の出血をハンカチで拭きながらあることに気がついて愕然とします。
「しまった。会社の重要書類と上着を網棚に置いてきてしまった」((+_+))
 火が消えるのを待って、新庄さんが上着と書類を取りに車内に戻ると、人の背丈くらいの高さに折り重なった人々が業火と放水のため「蒸し焼き状態で死んでいた」そうです。
腕章も付けずうろうろしている新庄さんを見咎めて関係者が「何だお前!ここで何してる!」と叫びました。
「この車両に乗っていて忘れ物をしたので・・・」
「ええっ、これに乗っていたのか!」
  周りは大騒ぎになり、新庄さんはそのまま事情聴取のため警察に連れて行かれました。
 ここからが元海軍さんの真骨頂です。肝がすわっています。
警察から解放されて会社に行った新庄さんは、
「いやー、何しろ助かっってよかった\(^o^)/」
「ま、イッパイやろう( ^^) _U」
ということで、同僚と一杯やっていました。(前日寝不足だったはずですが・・・)
帰ってみたら、大森の自宅には国鉄の偉い人がお見舞いに来ていたらしいのですが、肝心の本人が帰ってこないのでみんなで心配していたというのです。
 新庄さんはご両親にさんざん油をしぼられてしまったそうです。
 このお話、実は新庄さんの口からじかに伺ったものです。
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by naniwa-navy | 2011-10-02 11:01 | 戦記
戦記 桜花
ネットで見つけた72期の記事
 桜花
 新庄大尉が七二一(ななふたいち)部隊に配属されたのは昭和20年1月のことでした。
「七」という部隊名の数字を見て、「戦闘機ではない、特殊攻撃部隊だな」と思ったということです。
(部隊名の最初の数字は飛行機の種類を表し、通常の戦闘機部隊は二(ふた)か三)
そう、新庄大尉(当時中尉)の着任したのは「神風桜花特別攻撃隊神雷部隊」でした。
桜花とは。
 人間爆弾と呼ばれた、体当たり兵器。
一式陸攻に吊られたK-1と呼ばれるグライダー式の子機に、爆弾と、それを確実に敵艦に当てるための操縦員を載せ投下するという、帝国海軍の最終特攻兵器です。
最初に見てそのちゃちさに「冗談じゃない、こんなもので死ぬなんて勘弁してくれ」と足が震えた、というK-1。
訓練を任され、さらにその不安定で扱いの難しい様子を見るにつけ、「何故こんな兵器を採用したのか」という疑念が広がるようなものだったそうです。
事実、訓練で着地に失敗し殉職したり負傷したりした隊員は後を絶たなかったのです。
野中少佐がいみじくも言ったように「あんなもの絶対成功しやしない」というような桜花の存在は、あたかもそのものが断末魔の日本のあがきを象徴するように思えました。
 しかし、新庄中尉にとって最も辛かったのは、分隊長として、爆戦による特攻に出撃する隊員の搭乗割を作らねばならないことだったと言います。
 当時小学校の校舎に設けられた宿舎に部隊は駐屯しており、隊員は教室で寝起きしていました。新庄中尉は、教室に行って黒板に出撃する搭乗員の名前を板書するのですが、
 「黒板に名前を書きだすと、みんなわっと立ちあがってきて覗き込む。彼らはその名前を見て『あった、あった』とか『お前に先を越された』とか、はしゃぐように話し合っている。(中略)名前を書きだした日には、どんな様子か気になって、暗くなってからこっそり見に行ったりした。そっと廊下から教室の中を覗くと、彼らは夜遅くまで遺書を書いたり、故郷に送る荷物を整理したりしていた」(「人間爆弾と呼ばれて 証言 桜花特攻」文芸春秋)
 新庄大尉は、今でも自分が命令を下し、見送った隊員の顔を忘れることができない、と言います。 わずか17歳で出撃していった少年のような搭乗員。
彼は動揺のかけらも見せず、新庄中尉に向かってにっこり笑って敬礼をし、突撃していきました。
 またある出撃で、新庄中尉は自分より年上の下士官搭乗員の名を搭乗割に書きました。
出撃の朝、零戦の轟音が鳴り響く中、「帽振れ」の見送りをするために新庄中尉が列線を歩いているとき、その搭乗員が、戦闘機の操縦席に仁王立ちになっているのが見えました。
そして、そのとき彼がこう叫んだのを聞いたのです。
 「おっかさん! かいぐんが おれを ころすーっ!」
 轟々たるエンジンの爆音の中、血を吐くが如く咆哮する搭乗員。
新庄中尉は胸を突かれ、凝然と彼の姿を見守りました。
 しかし、次の瞬間。 隊員は新庄中尉に気付き、見事な敬礼をしてこう言いました。
 「新庄中尉!只今行ってまいります!」
その出撃で彼の機は敵艦に体当たりをし、壮烈な戦死を遂げたということです。
 「海兵出と違って死ぬ覚悟なんか最初はできてなかったのかもしれない。
でも彼はそう言って立派に出撃していったよ。」
 新庄大尉がこう言ったとき、65年前のことにも関わらず、その目には昨日のことを語るかのように涙が浮かんでいました。
 特攻を発案し、死んでいった若者に詫びる形で自決した大西瀧治郎中将のことを
「ちゃんと責任を取って死んでいった。あの方は立派でしたよ」
と言う新庄大尉。
 若い隊員を戦争とはいえ、命令し死地に向かわせた自分に、はたして責任は無かったのか。
その問いを大西中将の責任の取り方に重ね合わせ、自らに投げかけ続けた新庄大尉の65年間は、おそらく私たちには想像もつかぬほど長く重い日々であったに違いありません。
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by naniwa-navy | 2011-10-02 10:07 | 戦記

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