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なにわ会のブログ

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楓の思いで
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今から65年前の昭和20年1月31日私は駆逐艦楓の航海長だった。
在フィリピンの航空部隊は壊滅したが、搭乗員は相当数が乗機を失って、フィリピンから脱出することもできなくなっていた。そこで20年1月31日 に、第43駆逐隊の「梅」「楓」「汐風」の3隻に、ルソン最北端のアパリにむけ、航空要員を救出するため 出撃することが命じられた。「パトリナオ輸送作戦」である。
しかし、すでに制空権は完全に米軍のものとなっており、水上艦隊が動けるような状態ではなかった。
1月31日、「梅」 「楓」 「汐風」の3隻は、台湾の高雄からルソン島最北端のアパリへ向け出港する。
アパリ防衛のための高雄陸戦隊を乗せ、空襲を避けるためアパリ近郊のパトリナオ村を目指して午前8時高雄を出港、24ktで南下した。
10時、バシー海峡でアメリカ軍哨戒機に発見される。
15時頃、台湾最南端ガランピ岬の南方約35kmで米陸軍第14航空軍所属のP38戦闘機に護衛された第38爆撃航空団所属のB25爆撃機12機と第35戦闘航空団所属のP47戦闘機4機の空襲を受ける。
先頭にいた「梅」は、左舷側から集中攻撃を受け、主砲指揮所と前部砲塔と艦橋間の甲板などに3発被弾、機械室を破壊されて航行不能になる。
15時18分、「楓」が艦首に被弾、「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。
18時過ぎ、「梅」は「汐風」の砲撃により自沈処分となる。吉田司令など生存者は汐風に救助され、作戦の中止により高雄に引き返す。「梅」は約80名、「楓」は50名以上が戦死。
この時、楓主計長は高杉敏夫君だった。
私は卒業後終戦まで、終始艦艇(山城、隼鷹、羽黒、楓)勤務だったが、被害を受けたのはこの時と終戦直前の7月末、倉橋島で空襲を受けた2回だけであり、一度も泳ぐことは無かった。
65年経過しても、この日のことを何時も思い出す。  伊藤正敬
by naniwa-navy | 2010-01-31 20:33 | 思い出
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