戦没者
66年前 昭和20年
松浦 繁(偵12 偵察)
台南発マニラ強行偵察に向かい消息を絶つ(彩雲)
戦後物故者無し。
昭和20年8月9日、午前11時02分、長崎市に対し原爆が投下され、長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。此の原爆機は最初小倉に投下するつもりで小倉に向かったが視界不良のため、目的地を長崎に変更攻撃した。
米軍等の攻撃
B-29、95機 尼崎を夜間攻撃。
B-24隊 岩国、松山を攻撃。
B-25隊 鹿屋、別府湾、鶴崎、対馬海峡を攻撃。
B-25隊、A-20隊 鹿屋、串木野、島平を攻撃。
P-47、P-51、計200機 九州、四国、沖縄北部を攻撃。
空母機 本州北部、北海道、日本海を攻撃。
沈没 駆潜特務艇しんとう丸、貨物船第2こんごう丸、
第6たくなん丸、掃海艇W1号、
W33号、タンカーじゅうこう丸、
貨物船第36ばんしゅう丸。
米英空母機 女川沖で海防艦・天草、稲城を撃沈。
戦艦、巡洋艦からなる部隊(英軽巡2隻を含む) 釜石を砲撃。
ソ連軍が満州に侵攻してきた。
ソ連機 海防艦82号を日本海で撃沈。
商船かさど丸、第27りゅうほう丸をオホーツク海で撃沈。
この日最高戦争指導会議が行われた。その時の発言
東郷外相:国体の護持さえできればあらゆる苦痛も我慢する。
阿南陸相:戦局は互角である。
米内海相:戦争は互角というが明らかに負けている。
阿南陸相:会戦では負けているが戦争では負けていない。
梅津参謀総長と豊田軍令部総長は陸相と同意見であった。
閣議はまとまらないまま解散。
午後11時50分から御前における最高戦争指導会議が開かれ、平沼枢密院議長も加わった。
鈴木首相は「意見の一致を見ないのは遺憾であるが、ことは重大、事態は緊迫しており遅延を許さない。聖断を仰ぐしかない」と述べ天皇の御前に進んでおことばをお願いした。
天皇は「自分は外相の案に同意である。・・・・」と仰せられ、鈴木首相は聖断を以て会議の結論とすると述べ会議を終えた。(以上 左近允尚敏君の敗戦から引用)