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なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
戦記 桜花
ネットで見つけた72期の記事
 桜花
 新庄大尉が七二一(ななふたいち)部隊に配属されたのは昭和20年1月のことでした。
「七」という部隊名の数字を見て、「戦闘機ではない、特殊攻撃部隊だな」と思ったということです。
(部隊名の最初の数字は飛行機の種類を表し、通常の戦闘機部隊は二(ふた)か三)
そう、新庄大尉(当時中尉)の着任したのは「神風桜花特別攻撃隊神雷部隊」でした。
桜花とは。
 人間爆弾と呼ばれた、体当たり兵器。
一式陸攻に吊られたK-1と呼ばれるグライダー式の子機に、爆弾と、それを確実に敵艦に当てるための操縦員を載せ投下するという、帝国海軍の最終特攻兵器です。
最初に見てそのちゃちさに「冗談じゃない、こんなもので死ぬなんて勘弁してくれ」と足が震えた、というK-1。
訓練を任され、さらにその不安定で扱いの難しい様子を見るにつけ、「何故こんな兵器を採用したのか」という疑念が広がるようなものだったそうです。
事実、訓練で着地に失敗し殉職したり負傷したりした隊員は後を絶たなかったのです。
野中少佐がいみじくも言ったように「あんなもの絶対成功しやしない」というような桜花の存在は、あたかもそのものが断末魔の日本のあがきを象徴するように思えました。
 しかし、新庄中尉にとって最も辛かったのは、分隊長として、爆戦による特攻に出撃する隊員の搭乗割を作らねばならないことだったと言います。
 当時小学校の校舎に設けられた宿舎に部隊は駐屯しており、隊員は教室で寝起きしていました。新庄中尉は、教室に行って黒板に出撃する搭乗員の名前を板書するのですが、
 「黒板に名前を書きだすと、みんなわっと立ちあがってきて覗き込む。彼らはその名前を見て『あった、あった』とか『お前に先を越された』とか、はしゃぐように話し合っている。(中略)名前を書きだした日には、どんな様子か気になって、暗くなってからこっそり見に行ったりした。そっと廊下から教室の中を覗くと、彼らは夜遅くまで遺書を書いたり、故郷に送る荷物を整理したりしていた」(「人間爆弾と呼ばれて 証言 桜花特攻」文芸春秋)
 新庄大尉は、今でも自分が命令を下し、見送った隊員の顔を忘れることができない、と言います。 わずか17歳で出撃していった少年のような搭乗員。
彼は動揺のかけらも見せず、新庄中尉に向かってにっこり笑って敬礼をし、突撃していきました。
 またある出撃で、新庄中尉は自分より年上の下士官搭乗員の名を搭乗割に書きました。
出撃の朝、零戦の轟音が鳴り響く中、「帽振れ」の見送りをするために新庄中尉が列線を歩いているとき、その搭乗員が、戦闘機の操縦席に仁王立ちになっているのが見えました。
そして、そのとき彼がこう叫んだのを聞いたのです。
 「おっかさん! かいぐんが おれを ころすーっ!」
 轟々たるエンジンの爆音の中、血を吐くが如く咆哮する搭乗員。
新庄中尉は胸を突かれ、凝然と彼の姿を見守りました。
 しかし、次の瞬間。 隊員は新庄中尉に気付き、見事な敬礼をしてこう言いました。
 「新庄中尉!只今行ってまいります!」
その出撃で彼の機は敵艦に体当たりをし、壮烈な戦死を遂げたということです。
 「海兵出と違って死ぬ覚悟なんか最初はできてなかったのかもしれない。
でも彼はそう言って立派に出撃していったよ。」
 新庄大尉がこう言ったとき、65年前のことにも関わらず、その目には昨日のことを語るかのように涙が浮かんでいました。
 特攻を発案し、死んでいった若者に詫びる形で自決した大西瀧治郎中将のことを
「ちゃんと責任を取って死んでいった。あの方は立派でしたよ」
と言う新庄大尉。
 若い隊員を戦争とはいえ、命令し死地に向かわせた自分に、はたして責任は無かったのか。
その問いを大西中将の責任の取り方に重ね合わせ、自らに投げかけ続けた新庄大尉の65年間は、おそらく私たちには想像もつかぬほど長く重い日々であったに違いありません。
by naniwa-navy | 2011-10-02 10:07 | 戦記
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