早や戦後65年、なにわ会会員の平均年齢からみると、今年は半数近くの者が米寿(数え歳で88歳)を迎えました。
区 分 兵 機 経 計
卒 業 生 総 数 625 111 51 787
戦 没 者 総 数 335 57 20 412
復 員 者 総 数 290 54 31 375
復 員 後 物 故 者 数 159 31 16 206
物 故 者 総 数 494 88 36 618
現 在 生 存 者 数 131 23 15 169
戦 没 者 比 率 54 51 39 52
生 存 者 比 率 21 21 28 21
約21%の者が米寿を迎えられた事になります。
例年どおり1月4日には上野三郎君、市瀬文人君の尽力で鎌倉に24名が集まって新春をことほぐ会がわれ、6月4日には靖國神社で永代神楽祭が行われます。
恒例だった年末クラス会は20年で終りとなったが、昨年は11月に左近允尚敏君の発案で東京クラス会がおこなわれました。今年も何方かが提案される事を期待しています。
なにわ会だよりは好評で、第2号は第1号を越えて72頁程度のものが発行出来そうです。
なにわ会ブログは殆ど毎日書いていますが、これも好評でクラスの情報資料として役だっていて嬉しく思っています。
昨日までかかって森教官の戦時中の日誌ともいえる想い出をHPにとりこみました。、
その中の「29話 レイテ突入せまる」 の中に次の記事があった。
「12月14日頃(推定)以後、私は高雄のイ36司令部から今度はレイテ突入第10次輸送部隊という内示を受け、その準備をするように命ぜられた。話によれば第1次から第4次ぐらいまで、ことごとく全滅との由。」
これは19年の事である。もうこの時台湾からレイテに向かうのは死の航海であった。20年1月数度にわたりフィリピンからの搭乗員救出と比島防衛のための陸戦隊輸送作戦が実施されたがことごとく失敗であった。その中、20年1月31日、駆逐艦汐風、梅、楓の3隻で「(パトリナオ輸送作戦」が行われ、私は楓で参加、敵機の空襲を受けて、梅撃沈、楓被弾、辛うじて高雄に帰投したことを思いだした。
森教官はあの激戦下、17年9月から18年6月迄の8か月余水雷艇 「雁」の艇長として勤務し、さらに18年10月下旬から20年5月上旬迄の1年7か月間に合計44回の護衛を実施されている。この間、座礁事故、衝突事故等もあったが無事大任を果たされている。この間、主計科の神林君が朝顔主計長として勤務していた記事もあり、左近允中将と会われて左近允一家の事も書かれている。貴重な戦時記録であって是非読んで頂きたい。目次の数字をクリックしてください。