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なにわ会のブログ

海軍兵学校72期海軍機関学校53期海軍経理学校33期
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日記 10月16日
10月16日の戦没者
小林 優(攻256 偵察)台湾沖航空戦に参加、敵機と交戦後消息を絶つ(天山)

泉 五郎君から次の2つの資料を頂いた。
 1 思い出の宗谷海峡 65年目の再訪
   泉 五郎君は終戦後、海防艦屋代航海長として各地の掃海作業に従事したが、印象深い宗谷海峡方面の事が懐かしく、奥様と再訪され、その訪問記事を頂いた。
 この海防艦屋代、実は小生が昭和22年(1947年)8月 同艦艦長として青島まで回航して中国に引き渡した懐かしい艦である。
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当時の日記から。
(8月5日 屋代艦長発令。  8月12日 1300横須賀出港。
8月15日 1600佐世保入港。  8月25日 青島に向け佐世保発。
8月27日 青島入港。  8月30日 引き渡し完了。2100若鷹で青島発。
9月1日 1100佐世保入港。)

2 先般逝去された冨士夫人の写真
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  2001年(平成13年)3月24日の芸予地震の時、田島明朗さんが冨士夫人からお見舞いを頂いた時同封されていた写真である。
その時、お手紙には「喜寿を迎えた記念にダンスの発表会を行った。私が死ぬまで誰にも見せず、死んだら「なにわ会ニュース」に載せて頂けるようにして下さい。」と書いてあった。
 なにわ会ニュースが終りになったので、なにわ会ブログに掲載します。
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左から品川夫人、山田夫人、市瀬夫人、冨士夫人、2人おいて高崎夫人、松崎夫人、
 上の写真は同封されていたなにわ会の奥様方の写真で、なにわ会の良き全盛時代を偲ぶ資料として掲載します。
by naniwa-navy | 2010-10-16 05:18 | 日記
日記 10月15日
10月15日の戦没者
 山下 宏(攻3 偵察)台湾沖海面で敵機動部隊を攻撃中、戦死(彗星)
 土井 渉(801空 偵察)台湾東方洋上で、敵機の攻撃を受け戦死(二式大艇)
 田辺光男(戦302 戦闘機)台湾東方洋上で、敵機約50機と交戦戦死(零戦)
 水野英明(偵3 偵察)沖縄方面洋上で敵機動部隊索敵攻撃のため基地発進後、消息を絶つ(彗星)
by naniwa-navy | 2010-10-15 05:39 | 日記
日記 10月14日
10月14日
 台湾沖航空戦(1944年10月12日 - 10月16日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)における戦闘のひとつ。
 レイテ島の戦いに先立って台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍の損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認したまま大本営発表を行い、続いて生起したレイテ沖海戦に重大な影響を与えた。
 これからクラスの戦没者が激増していく。

山根 光(302空 戦闘機) 厚木基地で試験飛行中5000米付近で失速、殉職(雷電)
浅野 勲(攻252 艦攻操)台湾東方海面の敵機動部隊に突入戦死
武原鐵平(攻252 偵察) 同上
山崎正男(攻405 偵察) 台湾東方海面の哨戒に向かい、消息を絶つ(銀河)
鈴木忠雄(攻 5 艦爆操) 敵機動部隊の攻撃に発進、沖縄南方にて戦死(彗星)
by naniwa-navy | 2010-10-14 05:25 | 日記
日記 10月13日
10月13日
川端 博和(偵3 艦爆操)敵機動部隊索敵のため基地発進後台湾沖で消息を絶つ(彗星)

Aさんのブログから
深井中尉と長尾中尉
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最近、この「海軍」カテゴリーに入れている話の中でも特に「これ、誰やねん?」が(勝手に)シリーズ化してしまっていますが、最終的に結論の出ていない、私の妄想話ばかりです。
でも、私、
「前列左から○○少尉、××中尉、ひとりおいて△△中尉・・・・」
の「ひとりおいて」というのがどうも気になってしょうがないタチなんです。
「この人にもちゃんとした氏名階級があるはず!! あなた、誰ですかっ!!」
と、猛烈に知りたくなります。
結局、追究するための資料不足で、わからない私、想像しているだけというのが多いんですけどね。
でも、結論の出た話!
↑深井中尉(右)の横の搭乗員、誰やねん?
最初にこの写真を深井さんに見せていただいたときは、深井さんもこの方のことを探究中でした。
この写真一枚からはほとんど判別不能な話で。
この写真から言えることは、「かれは搭乗員だろう」。
ということだけです。
偵察か操縦かすら分らない。
場所も時期も不明。せめて袖の階級章でも写っていれば、深井中尉の72期の進級時期と照合して「○年○月○日~○月○日の間」までは特定できるのですけどねー。
深井さんからいただいた他の写真の中に、この人、写っていないかなあ??と思って探したところ、「同期生の葬儀に参列」という集合写真と、どこかの神社の鳥居の前で撮った、一種軍装に身を包んだ5人の海軍士官の集合写真に深井中尉と一緒に写っていました。
「同期生の葬儀に・・・・」ということなので、この人は72期の人だろう、ということが推定できました。
鳥居の写真、着ている一種軍装の襟に少尉の階級章がついています。
ということは、この人は深井中尉と少尉時代に一緒だったといえます。
深井中尉の少尉時代のほとんどは百里原の艦爆操縦の訓練時代です。
じゃあ、この人は「72期」の「艦爆操縦」の人かなあ?
というとこまでは想像がつきました。
でも、そこで頓挫してしまいました。
深井さんから41期飛行学生(72期主体)艦爆操縦の集合写真をいただいていたので、そこでこの人を探したのですが、私には見つけられなかったんですよねー。
たぶん、72期の艦爆操縦だろうなあ・・・・と思いつつ、その私になっていました。
ある日、突然、話が進みました。
伊藤さんが送って下さったなにわ会の戦記の中に「長尾利男」中尉の亡くなったときの様子が書かれていて、私はそれを読んで感じるところがあったので、なにわ会HPの「長尾利男」中尉の写真を見に行きました。
「へえ・・・・こんな人だったのだぁ・・・・」
と見ていたら、そのとなり、「長尾栄二郎」という方が↑の写真の左の人と同じ顔をしている・・・・。
深井さんが、72期の艦爆の方とお話をする機会があったので、そのときに聞いてもらったら、やっぱり↑の方は「長尾栄二郎」中尉で間違いないということでした。
長尾栄二郎中尉。
天城中出身、艦爆操縦、攻撃第3飛行隊、19年11月1日、比島レイテ方面にて戦死。
わたしの手元にある情報はこれだけです。あと、深井さんにいただいた数枚の写真。
19年11月頃の攻撃第3飛行隊(K3)の様子を調べようと思ったのですが、よくわからないのですよね・・・・。
『八機の機関科パイロット』(碇義朗)に、小川武大尉(機50期)という方が取り上げられています。K3の分隊長ですから、11月頃の比島戦の様子が書かれているかなあ、と思ったのですが、詳しいことはなし。
『空母艦爆隊』の山川新作さんも当時K3所属だったので、手記に何か書かれていないか見てみたのですが、やっぱり、11月1日のことは全く触れられておらず。
長尾中尉の戦死状況はわかりません。
一緒に写っている写真が数枚あるので、おそらく深井中尉と長尾中尉は仲がよかったのだろうなあ、と想像できます。
7月、百里を出て、深井中尉は教官勤務になって宇佐空へ。長尾中尉はそのままK3に着任して、訓練を経て戦地に行かれたのでしょうか。
宇佐には同期生もいるし、艦爆隊の情報もそれなりに入ってくるのでは。深井中尉もきっとどこかの段階で長尾中尉の戦死の報に接したのではないかと思います。きっと心穏やかではなかったはず。なんだかなあ・・・・。
by naniwa-navy | 2010-10-13 05:22 | 日記
日記 10月12日
10月12日。
山崎惣男(攻703 偵察)
 台湾東方海面哨戒の為基地発進後、消息を絶つ(一式陸攻)
伊藤 保(高雄空 戦闘機)・山口勝己(戦401 戦闘機)
 台南上空で敵機動部隊戦闘機を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
木原 建(台南空 戦闘機)
 敵機動部隊の戦爆連合大編隊を迎撃、これと交戦戦死(零戦)

 昨日齋藤義衛君が復員船長鯨の事を書いてくれた。私も2年間復員輸送等に従事したので、その概要を書いてみます。
復員輸送・引き渡し
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 広島湾倉橋島在伯の駆逐艦楓で終戦を迎えた私は、呉に回航、乗員の復員や残務整理にあたっていた。
10月に入ると、外地で終戦を迎えた軍人等の帰国のための輸送任務が課せられた。
 復員輸送開始。
第1回 10月26日 呉発→母島→浦賀着。(11月5日)
第2回 11月16日 浦賀発→石垣島→呉帰投(23日)。
第3回 12月 3日 呉発→石垣島→呉帰投(11日)
第4回 12月16日 呉発→宮古島→呉帰投(24日)
 12月26日~ 2月4日  修理のため因島に回航。入渠修理。
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 昭和21年 2月25日  補海第150号航海長。
  2月27日  楓退艦。笠戸造船所で海150に着任。
  3月 1日  笠戸→呉
第5回  3月 5日  呉→鹿児島→基隆→鹿児島(14日)
第6回  3月18日 鹿児島→基隆。主機械故障修理。
      3月31日 基隆→花蓮港→鹿児島(4月8日)
  4月15日 鹿児島→ 呉着(16日)修理。
第7回  5月 6日 呉発→鹿児島→上海着→鹿児島着(16日)
第8回  5月20日 鹿児島発→上海→鹿児島着。
 発疹チブス発生のため 6月10日まで隔離。
第9回 6月13日 鹿児島発→上海→鹿児島着(18日)。
第10回 7月11日 鹿児島→コロ島→博多( 7月22日)
 ( 7月18日 缶管破裂。1号缶使用不能。 7月26日 佐世保に於いて保管と決定。)
  8月 1日 博多→佐世保 以後佐世保で保管任務。
この間、母島、石垣島(2回)、宮古島,基隆(2回)花蓮港、上海(3回),コロ島から引き揚げ者の輸送を実施した。
10月 8日 海第132号航海長兼務発令。
12月10日 免兼職。
1947年(昭和22年)
 2月 1日 横須賀管船部勤務。
 2月26日 倉橋航海長兼屋代航海長に転勤。
 3月 4日 海150退艦。。
 3月 8日 倉橋兼屋代航海長として横須賀で着任。保管任務。
 8月 5日 屋代艦長発令。
 8月12日 横須賀→佐世保
 8月25日 佐世保→青島(27日)
  (同航の艦は若鷹、宵月、花月、海81、海40、海104、海107、輸16)
 8月30日 引き渡し完了。2100若鷹で青島発→佐世保( 9月 1日)。
 9月15日 輸110航海長
 9月20日 横須賀→佐世保(23日)
  (輸147、神島、波風、駆潜47、23、石崎同航)
 9月28日 佐世保→アモイ→香港→シンガポール
10月17日 引き渡し完了。荒崎に移乗。シンガポール→佐世保(10月26日)
12月20日 復員事務官を退職。
by naniwa-navy | 2010-10-12 04:52 | 日記
復員船長鯨(元潜水母艦) 機、齋藤
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復員船長鯨(元潜水母艦)

① 終戦・帰郷・再び舞鶴へ
  倉橋島特潜大浦基地での残務を済ませ故郷の長野に帰ったのは8月の末であった。そして故郷の山川を見つめる虚脱の日々であつたが、10月20日海軍省より「補長鯨分隊長」の飛電に接し蘇生の思いで勇躍舞鶴へ。卒業以来の舞鶴の地である。
 辞令は艦艇乗り組みの生存者全員に届き、残存の海防艦や巡洋艦・空母に乗り組む。
 長鯨は工廠で修理・改装中であった。(終戦の年は瀬戸内海が機雷で封鎖され、伊根湾に停泊中の長鯨は7月29日、30日の敵艦載機の空襲で艦橋に被弾、死者105名、負傷者100人以上という被害を受ける。伊根町に長鯨英霊之碑在りと。)
 舞鶴にはコレスの樋口が舞鎮に在り、又潜水艦の連中の古川(後、塩見と改姓)渋谷・山田・藤田等の面々それにクラスの上野と賑やか。
 出航の1月12日迄の2ヶ月余りを樋口の肝煎りで舞鎮理事生の諸嬢との交遊が持たれ、しばしば京都に遊んだりと敗戦の憂さが癒される。

② 長鯨に乗艦
 着任して先ず驚いたのは長鯨のボイラーが混焼缶(重油と石炭の併用)だった事である。機関学校の実習艦では経験したが、精鋭潜水艦の母艦のボイラーが混焼缶とは。長鯨の竣工は大正13年で私と同年齢。その後改装されなかったのには何らかの理由があったのだろう。粉塵にまみれての機関科を挙げての石炭搭載は復員輸送7ヶ月の期間に4ヶ所(舞鶴・グアム・呉・佐世保)で計2.140トン行われたが、こんな経験は恐らく我がクラスでは私一人だけだろう。・・・・
 乗り組んだ兵科の相棒は此の5月に他界した後藤英一郎。戦闘無き平和な航海長!読書が仕事のようであったが、私は戦時以上の艦隊勤務。後藤とは退艦後も付き合いが続くが晩年になり、なにわ会画会(水野・平野・若松・後藤)に仲間入りさせて貰い10年間に21回のスケッチ旅行と5回の展覧会。思い出は尽きない。 改めて後藤君の冥福を祈ります。・・・・
 所で肝心の乗組員は機関科の場合、特務士官・下士官の多くは残留していたが、兵隊大部は復員しており、欠員補充に馳せ参じたメンバーの中心は神雷特攻部隊の残党あった。敗戦の鬱憤の吐けどころの無い連中、何かと物議を醸したが統制のとれた一団、やがて私に心服し運転に最大の協力をしてくれた。
 そして解散に際し彼等が中心となりガリ版の記念誌を作ったが、今も手元に大切に保存し往時を懐かしく回想している。近年になって彼らの隊長がコレスの新庄 浩なるを知る。・・・・
 潜水母艦だけあって居住性は満点、各員個室に収まる。しかし航海となると揺れる事揺れる事!台風圏内に突入した時は肝を冷やされる。

③ 復員輸送
 長鯨は船体の修理・改造を済ませ、急造機関兵の教育も何とか済ませ、1月12日西舞鶴を出港、復員輸送の途に就く。そして8月15日の任務終了迄の7ヶ月間に8航海、13.700人の陸兵・邦人の輸送という最後のご奉公を完遂した。以下その寸景を。
★ 第1回 1月12日、西舞鶴→釜山、朝鮮人800名
           小雨煙る港、寒々とした周囲の禿山。
           警備員が闖入し私物を強奪、敗戦を実感。
★ 第2回 1月17日 佐世保→基隆→鹿児島 陸兵1.500名
           沖縄沖にて海中に鎮魂の花束を。
           基隆岸壁では陸兵の歓呼の出迎え。
★ 第3回 1月26日 鹿児島→基隆→鹿児島 陸兵1.500名

★ 第4回 2月6日  鹿児島→喜界島・宮古島・石垣島 沖縄人1.300名
           石垣島にて紀元節を迎える
           →基隆 陸兵1.500名→鹿児島→舞鶴 休養・整備
     3月6日   舞鶴停泊中、缶兵の未熟不注意により火災。
           戦時なれば懲罰もの。以後頻発。

★ 第5回 3月14日 舞鶴→釜山→鹿児島 朝鮮人800名

★ 第6回 3月24日 鹿児島→グワム→ラバウル→大竹 陸兵2.500名
        往路、大低気圧圏内に突入、天地入れ替わらんばかり
        の大揺れ、缶室にビルジ充満し必死の運転。
        グワムに寄航し蘇生の思い。それこそ万里の波濤を乗り
        越えて来し、ラバウル花吹山・椰子林・陸兵の顔顔・・・
        停泊中の夜半、豪兵裸にて闖入、!有段の猛者S大尉
        犯人を海中に投げ飛ばす!
        缶室火災。玉野造船所にて整備・休養・・・

★ 第7回 6月9日  呉→上海→佐世保(缶故障、出港遅延) 陸兵1.900名
         <奇遇>出港して乗船者名簿を閲覧すると部隊は
          我が故郷の連隊。しかも中学同級の麻沼・豊田両君
          の名前があるのには吃驚! 早速我が私室に案内し
          感無量の劇的対面と相成った次第。

★ 第8回 7月1日  佐世保→胡蘆島→博多 邦人1.900名
          缶室火災2回、
          船中にて妊婦男子出生!確か(長00)と命名。
      8月15日 奇しくも終戦の日に復員輸送任務解除となる。
        
長鯨はその後日立造船向島造船所にて解体され、船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたという。
                     (以上)
  附記
   一年足らずの第二のご奉公であつたが、戦中とは又違った貴重な経験を授かり戦後を迎える事が出来た。往時を偲び長鯨の絵を描いたが、作品は水交会に寄贈させて戴いた。
by naniwa-navy | 2010-10-11 16:59
日記 10月11日
10月11日
 HPに掲載してある佐伯物語の作者山本様から次のメールを頂いた。
「ブログのほうも連日拝読させていただいておりますが、10月8日のブログを読ませていただき、ドキリといたしました。それは「T氏」と表記されている方のメールの中にある、お言葉です。他人事ではなく思えます。
まさしく「佐伯物語」には多くの「メイキング」が盛られております。むろん私の責任におきまして発表したものではございますが、私のメイキングが読者様に「これが事実」という誤解を与えるとしたら、これは軽からぬ罪だと申せます。
 つきましては、佐伯物語はあくまでも事実を基に創作した小説である旨の一文を作成いたしました。添付致します。まことに恐れ入りますがご一読いただきますようお願い申し上げます。」
 添付された「お断り」を佐伯物語の目次冒頭に「お断り」として掲載した。

Aさんのブログから 片山中尉と塚田中尉(と橋本中尉)
片山市吾中尉  愛知県熱田中学出身。
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塚田浩中尉(終戦時大尉)  長野県松本中学出身。
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 ともに海兵72期出身の戦闘機乗り、厚木302空雷電隊
  昭和43年逝去

 塚田中尉によると、兵学校時代の片山中尉は余りにもわがままで高慢ちきに見えるような人だったとか。 兵学校時代、「相当な猛者」(←「酒や女」方面ではないはずなので、「威勢がいい」という意味だと思われる)であり、飛行学生時代も、頭髪を伸ばして飛行長の怒りを買ったり、教員(下士官の操縦教員)を殴って問題になったり、いろいろと困ったことをしでかす人だったと回想しています。エスプレイをしても、派手に踊りまわってエスを怖がらせてしまうような人だったらしいです。しかし塚田中尉は厚木で一緒に生活するようになってから、彼の理解者になっていきます。 「片山という男は実にさっぱりした、いいやつだった」  日付は不明なのですが、片山中尉は邀撃戦に上がった際、不時着してしまい、負傷入院してしまいます。 どれほど戦列を離れていたかも不明ですが、かれを焦らせるには十分なほど、入院していたようです。 退院後、張り切りボーイ・片山中尉は戦果を上げようと頑張りますが、なかなか思うような戦果は得られませんでした。

そんなとき。20年4月。
 厚木の302空も、沖縄戦への加勢のため、鹿児島・笠原に進出することが決まりました。 全員ではありません。12名が選ばれて行くことになりました。 分隊長の寺村大尉は上から「連れて行く72期は1人」という条件をつけられ、塚田中尉を選抜しました。
 塚田中尉はこのことを「得意げに」片山中尉に話してしまいました。(おそらく笠原進出前夜のこと) すると、片山中尉は分隊長のところへ押しかけて行き、自分を連れて行ってくれと直談判します。寺村分隊長は片山中尉の熱意にほだされて、とうとう2人を交代させることにしました。今度は、戻ってきた片山中尉からそのことを聞かされた塚田中尉が承知するはずがありません。言い合いをした挙句、2人そろって飛行隊長、分隊長のところへ駆け込みます。 「鹿児島には自分を連れて行ってほしい」 と。

寺村分隊長の回想。
 『今度は2人でわたしの部屋に来た。両名とも頑として譲らないのでいっこうに話が決まらない。わたしが決めればよいのだが、海軍は沖縄戦に全力を尽くし最後の決戦のつもりであり、大和まで特攻出撃するというぐらいだから、おそらく笠原に行けば生きては帰れないだろう。わたしも決めかねて、最後は、2人はじゃんけんをして勝ったほうがいくこととなった。そして片山中尉が勝ったときのうれしそうな顔がいまでも目に浮かぶような気がする』
 塚田中尉の回想ではちょっと違います。
 飛行隊長に「2人でよく相談せよ」と諭され、2人は部屋に戻ります。 『わたしは部屋に帰ってかれと激しく論争した。そのときかれは涙を流さんばかりにして小生に言った。貴様はいままでに相当な戦果を挙げているが、おれはまだそれらしい奉公はできていない。今度行けば必ずやってみせるから、今回ばかりは我慢しておれにやらせてくれ』
それでも塚田中尉は首を縦に振りませんでした。塚田中尉とて、最後のご奉公と覚悟を決めていたのです。「それでは明朝、籤で決めよう」
 翌朝、笠原への出発準備が整った飛行場へ2人とも軍刀を手に、「行くつもり」で出てきました。 そこでまた「笠原行き」の奪い合いをした結果、片山中尉が行くことになりました。 『おれは負けた。いや負けてやった。そしてかれに行ってもらった』

4月12日。
 笠原から沖縄に向かって出撃した302空の零戦隊(古い訓練用の零戦だったらしい)の中に、片山中尉の姿がありました。 沖縄上空まで敵に会わず、旋回して引き返そうとしたとき、片山中尉が敵機を見つけ寺村分隊長に知らせてきました。
 その後、グラマン数機と乱戦になり、寺村大尉は「上から降ってくるグラマンに敢然と片山中尉が反撃して行った」のを見たそうです。 それが片山中尉が目撃された最後です。 かれは塚田中尉が待つ厚木の士官室に帰ってくることはありませんでした。

 余談ですが、H氏が「3月19日に未帰還になった」と勘違いしていた「橋本達敏中尉」ですが、かれは343空に転勤する前は、塚田中尉・片山中尉と同じ厚木・雷電隊の搭乗員だったようです。
 塚田中尉の回想に「小生と橋本が残されたときは、72期は全滅か」とか「そのとき橋本は343空に転勤になっていたので」という記述があったので、302空の読み物を調べてみたところ、橋本達敏中尉、たしかに302空に在籍されていたようです。
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 偶然ですが、橋本中尉が戦死したのも4月12日。
橋本中尉は午前7時ごろ鹿屋から出撃、片山中尉は午前11時ごろ笠原を出撃、ともに沖縄方面に向かい、敵機と交戦戦死。
by naniwa-navy | 2010-10-11 05:33 | 日記
日記 10月10日
10月10日
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 昨日辻満寿夫君の娘さんから同君の訃報を頂いて、メール等で会員に知らせた。
 彼は平成22年 9月21日(月)肺炎で逝去、葬儀はご親族で行われた。
 1年ほど前から体調を壊し、入退院を繰り返していたが、1月ほど前から肺炎になり入院、療養に努めていたが薬石効無く逝去された。謹んでご冥福を祈ります。

有志会員Aさんのブログから
 瑞鶴のご真影
 感動した話がたくさんあって、そのうちの一つに、若い二人の青年士官が、天皇陛下のお写真を沈没しかかっている瑞鶴から運び出す話があったのです。
 あの当時の軍人さんや国民にとって、天皇陛下のお写真がどれほど大事なものだったのか、戦後生まれの わたしなんかにはたぶん想像しようにも想像できないことなのでしょうが、二人は自分の命も顧みず、お写真を運び出そうとします。
 沈みかかっている瑞鶴から運び出し、沈没後はお写真をかついで海を泳いだのです。
 お写真を無事に運び出した責任感の強さに感動したのではないのです。このお写真を大事に抱えている方が死ぬ確率が高いのに(戦闘後、疲労困憊のまま戦場の海を漂っているわけですから)、「自分が持つ」と、お互いその危険な任務を自らが引き受けようとする姿に感動しました。
 結局、お二人とお写真は無事ほかの船に救助されました。・・・・という話だったと思うのです。
 
 今日、図書館に行って神野正美さんの『空母瑞鶴』を借りてきました。 瑞鶴のご真影運び出しの詳しい状況がわかりました。
 総員上甲板の命令が出てから、副長からご真影の運び出し命令を受けたのは庶務主任の大畠永弘さんです(当時、少尉か?)。戦闘開始前に最下甲板の高角砲発令所に移してあったお写真を、艦橋から取りに戻ろうとしたけれど、下から上がってくる機関科員、応急員のために難儀していたところ、一人の兵隊が箱入りのお写真を持って上がってきてくれたそうです。
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 副長附甲板士官だった足立喜次中尉(兵72期)も貝塚艦長から「お写真を上げろ」と命令され、甲板下へ向かったそうですが、下から上がってきた兵員に、「お写真は上に上がった」と教えられ、下には行かなかったようです。
 総員退艦のときになって、左舷甲板上にいた大畠さんと足立中尉は一緒に海に入ります。足立中尉も艦長にお写真のことを命じられていたことから、お写真を背負っていた大畠さんと一緒にお写真を守ろうと思われたのではないでしょうか。
 重油の海を泳いでいると、『初月』が救助にきました。しかし、お写真を背負っている大畠さんや足立中尉には気づかずに、泳いでいる人間の三分の一ほどを救助して去っていったそうです。
このとき取り残された人たちはどんなにがっかりし、絶望したことかと思います。そのまま二時間ほど、うねりに身を任せて材木につかまっていると今度は『若月』がやってきました。
大畠さんは、今度こそ乗らねば、と思ったそうです。
「足立中尉、泳ぎましょう」
「よし泳ごう。お写真は大丈夫か。おれが持って行こうか」
「大丈夫です」
 このとき大畠さんは、どうせお守りして泳ぐならば最後まで自分で持って泳ぎたい。人に渡すのは残念だ、という気持ちで足立中尉の申し出を断ったということでした。 ところが、やはりお写真を持って泳いでいると、どうしても遅れがちになり、だんだん足立中尉に離されてしまいます。
「おーい! 庶務主任早く来いよ」
待っていてくれたので泳ぎつきます。
「おれが持って行ってやろう」
 ここでやっと大畠さんも意地を張っていられないとお写真を足立中尉にゆだねます。 100メートルほど泳いで、やっと『若月』に救助されました。

 これが、平和な海水浴場での話なら、「ああ、微笑ましい男の友情」で済むのでしょうが、二人が泳いでいるのは戦場の海。しかも、目の前の『若月』に拾い上げてもらわなければ、永遠にそこに取り残されてしまう可能性があるのです。
 自分だけ助かりたければ、戦友を置いてさっさと泳いで行ってしまうとか、お写真を放り出してしまうとか、他にも道はあったのかもしれませんが、二人は助け合いながら、お写真も守り通しました。 わたしはそのことにすごく感動しました。
 余談ですが、二人が最初にすくってもらえなかった『初月』は、救助した瑞鶴の乗員を乗せたまま、その日の夜戦で米水雷戦隊と果敢に戦い沈められてしまいました。
 参考:神野正美『空母瑞鶴』光人社
by naniwa-navy | 2010-10-10 05:08 | 日記
辻 満寿夫君逝去
 辻 満寿夫君(兵科)(名簿P20)は平成22年 9月21日(月)肺炎で逝去されていた。ご親族で葬儀は行われた。本日娘さんから電話で知らせて頂いた。
 辻満寿夫君は1年ほど前から体調を壊し、入退院を繰り返していたが、1月ほど前から肺炎になり入院、療養に努めていたが薬石効無く逝去された。
 慎んでお悔やみ申し上げます。
by naniwa-navy | 2010-10-09 20:36 | 訃報
日記 10月9日
10月9日
 一昨日鹿児島の野村治男君が亡くなった。野村君は戦艦武蔵の甲板士官で運よく生き残り、駆逐艦柳航海長となり、さらに、終戦時横鎮付きとなり、米艦隊の東京湾入港の水先案内を務めた。
 彼は今年の初めから脳梗塞のため寝たきりとなり、療養に勤めていたが10月7日逝去されたと次男の方から電話を頂いたので、HP、ブログ、メールで会員に知らせた。慎んでご冥福を祈ります。

Aさんのブログから
折田善次艦長と川久保輝夫中尉
 折田善次氏は多々良隊、天武隊の柿崎隊長以下6人を戦場まで運ぶ役目を担った伊47潜の艦長です。鹿児島出身、海兵59期出身。このとき30代半ばぐらいではないかと思われます。
 伊47潜はこれ以前、菊水隊の回天とも行動を共にしています(19年11月8日出撃)。仁科関夫中尉(兵71期)、佐藤章少尉(九大)、渡辺幸三少尉(慶大)、福田斉中尉(機53期)の4人です。
 折田艦長にとって、これが初めての回天搭載だったのでしょうか。乗組員には、「回天搭乗員の前では決して、明日の話はするな。日本へ帰ったらどうするか、とか、うまいものを食いに行くとか、そういう話は一切してはならぬ」 と厳命していました。
 折田艦長も潜水艦乗組員もそうやって気を遣っていたのですが、回天搭乗員たちは普段とまるで変わらず、測的の訓練や海図の研究に没頭しており、暇があると手空きの者と将棋やトランプに打ち興じていたそうです。
折田艦長は日に日に食欲がなくなっていきますが、回天搭乗員たちは元気で、食欲も旺盛、平素と全く変わらなかったと。 「彼らはすでに生きながらにして神様だ、神様でなければとてもあんなにはできない」と思ったそうです。
 そして、目的地ウルシーに到着。いよいよ回天発進の時がやってきます。折田艦長がそれを命じたのです。4人の搭乗員たちはそれぞれ頬を紅潮させ、背をまっすぐに伸ばし、「お世話になりました、征きます」と元気のよい声で挙手の礼をして回天に乗り込んでいったそうです。
 19年12月25日、伊47潜にとって2度目の回天作戦のための出撃です。
連れて行ったのは金剛隊の4人です。川久保輝夫中尉(兵72期)、原敦郎中尉(早稲田)、村松実上曹(14志)、佐藤勝美一曹(14志)。
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 艦長は特に川久保中尉とは深い縁でした。川久保中尉も鹿児島の出身で、輝夫中尉のお兄さん(次男・尚忠。輝夫中尉は五男)が折田艦長と兵学校同期生で仲良しでした。当然、輝夫中尉のことも幼少のころから知っている、という仲でした。折田艦長は二人きりになった時に、心の中で泣きながら話しかけます。
「お前、大きくなったなあ。昔、遊びに行ったときは、ものもようしゃべらんガキじゃったが、いまはこうして回天搭乗員になろうとはなあ。お前のお父さんにお前のことを話してやるから、何か伝えたいことがあったら言え」
川久保中尉は静かに答えました。
「おじさんがご覧になったとおりのことを親父に言ってください」
 敵地に向かう途中の12月30日、伊47潜は思わぬものを発見します。玉砕したグアム島から脱出した海軍陸戦隊の8名が乗った漂流中のいかだです。わずかな食糧で1か月近くも漂流していたのです。しかし、折田艦長はここでかれらを救助するべきかどうか迷いました。いまから回天を発進させるために死地に赴かねばらないのです。せっかくここまで生き延びてきたかれらを艦に収容してしまうと結局殺すことになるかもしれない・・・・酷かもしれないが、飲み水と食べ物を与え、一番近い島の方角を教えて突き放した方がいいのではないか・・・・。 艦長が迷っていると川久保中尉が言いました。
「8名を助けてやってください。われわれ4名はも間もなく死にますが、4人のかわりに8人の海軍がかわって生還するということはめでたいことです。着るものはわれわれのものがいらなくなるから、それをやってください」
 このひとことで、折田艦長は8名を救助する決心がつきました。
 20年1月12日、伊47潜は目的地のホーランジアに到達。金剛隊の4人は菊水隊の4人と同じように折り目正しく艦長や乗組員に、「お世話になりました、では征きます」と挨拶をして回天の人となったのです。
折田艦長は結局、伊47潜の艦長として12名の回天搭乗員の発進命令を下したことになりました。
上記8名と、天武隊の柿崎中尉、前田中尉、古川上曹、山口一曹です。
参考:岩崎剛二『指揮官最後の決断』光人社NF文庫
また、なにわ会のHPに折田善次艦長の戦後の回想が掲載されているので、詳細はそちらでどうぞ(トップの「戦没者」→「川久保輝夫」)
by naniwa-navy | 2010-10-09 05:14 | 日記

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